錦糸公園

May 29th, 2005

マップ

錦糸公園は、錦糸町駅の北口を出てすぐの所にある、本所地区の人たちには馴染みの公園である。春には桜の名所として、区外からも多くの花見客が訪れる。


花見の季節の錦糸公園


現在のレイアウト
墨田区ウェブサイト:錦糸公園の現況

面積56,000平方メートル。現在は、体育館、プール、野球場、テニスコートを備えたスポーツ公園という位置づけだが、1928年(昭和3年)の開園時には、緑と池しかなかったようだ。


1928年(昭和3年)開園時の錦糸公園。
[写真集 墨田区の昭和史(墨田区の昭和史編纂委員会)]

本所地区は、関東大震災においても大きな被害を受けた。錦糸公園は、震災後の帝都復興計画により、災害時の避難場所を兼ねた三大公園(錦糸、隅田、浜町)のひとつとして、陸軍糧秣厰(兵員の食糧や軍馬の餌などを備蓄する所)跡地に造成された[古地図・現代図で歩く 戦前 昭和東京散歩(人文社)]。


開園当時のレイアウト(右は開園祝賀会のポスター)
墨田区ウェブサイト:錦糸公園の変遷

開園祝賀ポスターには、次のようなことが書かれている。

七月十八日公開
帝都新三大公園ノ一 錦糸公園ハ 江東ノ一角ニ最新ノ様式ヲ緑ニ包ミテ出現セリ 来レー来レー
錦糸公園開園祝賀会
午前九時より開園式 午後一時より一般開放
当日ノ催シ物
小学生□ノマスゲーム 陸軍楽隊演奏 素人相撲 各種演芸 昼夜間ノ大花火□

公園内が現在のレイアウトになったのは戦後数年経ってからのようだ。戦時中はまだ最初のレイアウトのままで、中央に18,000平方メートルの芝生大広場、北西に2,000平方メートルの自由広場、南西に幼児遊技場、北東に少年用遊技場、そして東に噴水池があった[墨田区ウェブサイト:錦糸公園の変遷]。

下は、戦後公園内のレイアウトがどう変化したかの変遷が分かる航空写真。1971年までには新たな噴水池と体育館ができ、ほぼ現在のレイアウトとなっている。公園北側は、精工舎で、この間ほとんど変化していないのが分かる。


墨田区ウェブサイト:錦糸公園の変遷

現在、元のレイアウトの名残はほとんどないが、北東角の入り口に、開園当時からの門柱が今も残っている。(上にある開園当時の写真で左下に見えるものと同種)。


開園当時から残る門柱

門柱のそばに、説明書きがあった。

 大正十二年(1923年)九月一日午前十一時五十八分に発生した関東大震災は、東京の下町を広範囲に破壊し、さらに火災によって殆どの市街地が焼け多くの人命が失われました。それを教訓として近代的な都市へ生まれ変わるために、世界に類をみない規模の帝都復興事業が行われ、現在のまちの基礎が築かれました。
 錦糸公園は、隅田公園、浜町公園とともにその帝都復興事業で整備された三大公園の一つです。以前は旧陸軍の糧秣厰倉庫敷地でしたが、約三年の工事期間を経て昭和三年七月に開園されました。開園以来第二次世界大戦による被災があり、また様々な改変も行われたため、往時をしのばせるものは数少なくなりましたが、この門柱は奇跡的に現在まで残りました。
  開園当時は明るくシャープなデザインで被害にあった周辺地域を元気づけたものと思われます。墨田区では、この門柱を今後とも保存に努めてまいります。
 平成十七年三月 墨田区

もともとが、災害時の避難場所という位置づけで作られたこともあって、3月10日の空襲では、多くの人々が錦糸公園に避難したようだ。いろいろな体験談を読んでいると、錦糸公園の名前をしばしば目にする。中には、浅草千束町から炎の中を逃げるうちに言問橋を渡って本所区に入り、やがて錦糸公園に辿り着いてそこで一命を取り留めた人もいる。当時13歳だった菊島幸治さんである。

 それでも、なんとか、橋をわたりおえたら、近所の寺内さん父子に会いました。
 寺内さんも、おくさんとはぐれてしまってましたが、なにみんな後からくるだろう、ということで、寺内さんと一緒に京成線の押上駅まできましたが、ボンボン燃えてます。ごーっと突風がやってくると、炎は道路をひとなめにして、一瞬にむこうがわへ燃え移るのですからね、常識じゃ考えられません。あまりの熱気で、服もすぐバリバリになる。目もおかしくなる。用水の水をかぶりかぶり、身体をひくくして地を這うように進み、やっと錦糸公園へたどりつきました。
 公園の貯水槽のふちにいて、手袋をぬぎ、妹と水にひたした片方ずつの手袋で火の粉をはらい、煙をさけて、口と鼻にあてたりしているうち、どうにかこうにか朝がきました。
 錦糸公園は立木がかなり燃えたようでしたが、私と妹は助かり、おたがいに顔を見あわせると、ホッと息をついたものです。私の学生オーバーは、火の粉の穴だらけ、ズボンもずたずたになっていて、妹はハダシでした。

 一行は錦糸公園を出たとたんに、路上をうめつくした焼死体に目を奪われた。それは「裸のマネキン人形に墨をぬった」ものかと、最初菊島少年は思ったという。
 まっくろ焦げのそれは、どこのだれやら、男か女かもわからない。服も髪も皮膚も肉も灰になり、口の中だけが焼けずに残っている。黒い棒くいをばらまいたような焼死体の行列は、しばらくつづいて、とぎれることはなかった。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

ここで貯水槽と言っているのは、公園の南東にあった噴水池のことだろうか。この後菊島さんは言問橋方面に帰っているので、路上をうめつくす焼死体を見たのは、四ツ目通りだろう。


現在の四ツ目通り(総武線のガード方向を見る)

3月10日の後、錦糸公園には約13,000体の遺体が仮埋葬された。仮埋葬は都内の主な公園、寺院、学校などを使って行われたが、錦糸公園の13,000体という数は、仮埋葬地の中で最も大きな数字である。下町勤労市民の憩いの場は、巨大な墓地となった。仮埋葬された遺体を再び掘り起こし東京都慰霊堂に納骨する作業は、1948年から3年間かかった。


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