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	<title>空襲日記</title>
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	<pubDate>Wed, 10 Mar 2010 05:05:55 +0000</pubDate>
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		<title>空襲被災地図</title>
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		<pubDate>Mon, 10 Aug 2009 17:46:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[資料]]></category>

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		<description><![CDATA[江戸東京博物館には、東京大空襲に関連する資料が多く展示されているが、中で私が最も興味深いと感じるのは、「東京被災地図」と題された一枚の大きな地図である。これは、1941年の、浅草区、本所区、深川区、日本橋区、城東区およびその周辺区の地図を下敷きにして、1945年3月10日未明の大空襲で犠牲になった人々の当時の住所と遭難地をひとつひとつ赤い線で結んだものである。線は、住所地から遭難地に向けて矢印になっており、人々が自宅からどこに向かって逃げたのかが分かるようになっている。
元となった資料は「都内戦災殉難者霊名簿」というもので、そこに記載された3月10日の犠牲者約9500人について、判明している住所と遭難地（亡くなったと考えられる場所）を抽出し、線で結んでいる。約10万人が亡くなったと言われる中で、わずか10分の1程度のサンプルではあるが、空襲の夜に人々が炎の中を逃げ惑い、そして力尽きるまでの足取りを俯瞰することができる。
自宅あるいは自宅付近で亡くなった方も多いが、中には区を越えて自宅から数キロも離れたところで亡くなっている方もいる。地図上では住所と遭難地を直線で結んでいるため、遭難地に至までにどのような道を辿ったのかまでは分からない。おそらくほとんどの人々は、あてもなく街をさまよったのだろう。
この地図ではっきり分かるのは、多くの方が集中して亡くなっている場所である。それは、橋と国民学校（現在の小学校）である。多くの線が各地からこれらの場所に集中している。少し離れた場所から地図を見ると、それらの場所に線が集まって赤くなっている。例えば、言問橋、江東橋、菊川橋、二葉国民学校、横川国民学校、菊川国民学校などである。
橋には対岸へ逃げようとする人々が両側から殺到し、身動きがとれなくなったところに火が回った。国民学校は当時数少ない鉄筋コンクリートの建築物だったために人々が殺到した。しかし窓などを突き破ってその中へ火が回ったために、焼却炉状態になってしまった。
より大きな地図で 空襲マップ を表示
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/">江戸東京博物館</a>には、東京大空襲に関連する資料が多く展示されているが、中で私が最も興味深いと感じるのは、「東京被災地図」と題された一枚の大きな地図である。これは、1941年の、浅草区、本所区、深川区、日本橋区、城東区およびその周辺区の地図を下敷きにして、1945年3月10日未明の大空襲で犠牲になった人々の当時の住所と遭難地をひとつひとつ赤い線で結んだものである。線は、住所地から遭難地に向けて矢印になっており、人々が自宅からどこに向かって逃げたのかが分かるようになっている。</p>
<p>元となった資料は「都内戦災殉難者霊名簿」というもので、そこに記載された3月10日の犠牲者約9500人について、判明している住所と遭難地（亡くなったと考えられる場所）を抽出し、線で結んでいる。約10万人が亡くなったと言われる中で、わずか10分の1程度のサンプルではあるが、空襲の夜に人々が炎の中を逃げ惑い、そして力尽きるまでの足取りを俯瞰することができる。</p>
<p>自宅あるいは自宅付近で亡くなった方も多いが、中には区を越えて自宅から数キロも離れたところで亡くなっている方もいる。地図上では住所と遭難地を直線で結んでいるため、遭難地に至までにどのような道を辿ったのかまでは分からない。おそらくほとんどの人々は、あてもなく街をさまよったのだろう。</p>
<p>この地図ではっきり分かるのは、多くの方が集中して亡くなっている場所である。それは、橋と国民学校（現在の小学校）である。多くの線が各地からこれらの場所に集中している。少し離れた場所から地図を見ると、それらの場所に線が集まって赤くなっている。例えば、言問橋、江東橋、菊川橋、二葉国民学校、横川国民学校、菊川国民学校などである。</p>
<p>橋には対岸へ逃げようとする人々が両側から殺到し、身動きがとれなくなったところに火が回った。国民学校は当時数少ない鉄筋コンクリートの建築物だったために人々が殺到した。しかし窓などを突き破ってその中へ火が回ったために、焼却炉状態になってしまった。</p>
<p><iframe width="100%" height="480" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;source=embed&amp;msa=0&amp;msid=109622826284638235710.0004481847d01dde74be2&amp;ll=35.699843,139.796562&amp;spn=0.008364,0.013733&amp;z=16&amp;iwloc=000470cc22d58a146d4fd&amp;output=embed"></iframe><br /><small>より大きな地図で <a href="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;source=embed&amp;msa=0&amp;msid=109622826284638235710.0004481847d01dde74be2&amp;ll=35.699843,139.796562&amp;spn=0.008364,0.013733&amp;z=16" style="color:#0000FF;text-align:left">空襲マップ</a> を表示</small></p>
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		</item>
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		<title>2009年の3月10日</title>
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		<pubDate>Tue, 10 Mar 2009 14:48:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[朝会社に行く前に慰霊堂に寄った。
時間が早かったためか、人はまばらで、横網町公園は静かだった。
それでもあちこちで係の人が法要の準備をしていて、本堂の入り口では、数十人の参拝者が列をつくって順々に中へ入っていくところだった。
線香の煙が漂って、すでに厳かな空気だった。

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>朝会社に行く前に慰霊堂に寄った。<br />
時間が早かったためか、人はまばらで、横網町公園は静かだった。<br />
それでもあちこちで係の人が法要の準備をしていて、本堂の入り口では、数十人の参拝者が列をつくって順々に中へ入っていくところだった。<br />
線香の煙が漂って、すでに厳かな空気だった。</p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/img_2165.jpg" alt="" title="慰霊堂" width="400" height="300" class="alignnone size-full wp-image-146" /></p>
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		<title>閃光花火</title>
		<link>http://airraiddiaries.com/?p=144</link>
		<comments>http://airraiddiaries.com/?p=144#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 17 Sep 2008 14:22:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[
ソウル・フラワー・ユニオンの新譜「カンテ・ディアスポラ」の中に、「閃光花火」という曲がある。次のような歌詞が出てくる。
大空襲の花　爆音上げる花
閃光が轟いて　久しぶりに驚く
天空見上げる　花火が上がる
天空見上げる　願いをかける
下町の空に上がる花火の音に空襲の記憶を蘇らせる人々のことを歌っているようで、興味深かった。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=airraiddiarie-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=B001C4DZ50&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="float:right;width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p><a href="http://www.breast.co.jp/soulflower/">ソウル・フラワー・ユニオン</a>の新譜「<a href="http://www.breast.co.jp/soulflower/library/disc/detail/sf-081.html">カンテ・ディアスポラ</a>」の中に、「閃光花火」という曲がある。次のような歌詞が出てくる。</p>
<blockquote><p>大空襲の花　爆音上げる花<br />
閃光が轟いて　久しぶりに驚く</p>
<p>天空見上げる　花火が上がる<br />
天空見上げる　願いをかける</p></blockquote>
<p>下町の空に上がる<a href="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-trackback.php?p=18">花火の音に空襲の記憶を蘇らせる人々</a>のことを歌っているようで、興味深かった。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>迎え火</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Jul 2008 13:50:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[雑感]]></category>

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		<description><![CDATA[今日、近所を歩いていると、いくつもの家の軒先で人々がしゃがみこみ、焙烙（ホーロク）にのせたおがらを焚いていた。迎え火である。
東京では7月13日から16日がお盆となる。
この辺りには、空襲犠牲者の遺族が大勢住んでいる。きっと、今年も亡くなった者を迎えているのだろう。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>今日、近所を歩いていると、いくつもの家の軒先で人々がしゃがみこみ、焙烙（ホーロク）にのせたおがらを焚いていた。迎え火である。</p>
<p>東京では7月13日から16日がお盆となる。</p>
<p>この辺りには、空襲犠牲者の遺族が大勢住んでいる。きっと、今年も亡くなった者を迎えているのだろう。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>東京初空襲</title>
		<link>http://airraiddiaries.com/?p=141</link>
		<comments>http://airraiddiaries.com/?p=141#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 11 May 2008 16:01:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[人・物・事]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://airraiddiaries.com/?p=141</guid>
		<description><![CDATA[最初の東京空襲は、1942年（昭和17年）4月18日。太平洋戦争開戦からわずか半年後のことであった。
真珠湾攻撃によって大きな打撃を受けたアメリカ軍は、その報復として、帝都東京への空襲を計画した。日本本土に爆撃機を到達させるために、航続距離の長い陸軍中型爆撃機を、東京まで1200kmの日本の哨戒艇配備線ぎりぎりまで近づけた空母から発艦させるというアイデアを採用した。空母の短い飛行甲板から離陸するために、ノースアメリカンB25爆撃機を軽量化し、飛行士は何度も離陸訓練を行った。
ジェームス H・ドゥリトル中佐率いるB25爆撃機16機を搭載した空母ホーネットは、巡洋艦や駆逐艦などの護衛のもと、1942年4月2日にサンフランシスコを出港し、日本へ向かった。そして4月17日、発艦予定海域の手前で日本軍特設監視艇に発見されたため、予定より若干早く爆撃隊はホーネットを発艦した。

空母ホーネットに搭載されたB25［Wikimedia Commons］
空母ホーネットは、16機の発艦を終えると、日本軍からの攻撃を避けるためにすぐに引き返した。ドゥリトル隊は、空母に戻るのではなく、東京など日本の主要都市を爆撃した後、日本列島を横断して、中国東部の基地に着陸する計画だった。
B25が大海原を飛び越えて日本本土に到着したのは4月18日の正午。東京では皮肉にも折からの防空訓練の最中だった。12時15分にドゥリトル中佐の一番機が東京上空で最初の爆弾を投下した時、多くの人はその機影を訓練のための模擬敵機だと勘違いしたという。空襲警報のサイレンが鳴り響いたのは、その14分も後だった。アメリカ軍の爆撃機が本土上空に現れることなどまだ誰も予想していなかったため、人々は、精神的にも物理的にも無防備だった。ドゥリトル隊の奇襲攻撃は、計画どおり成功したのである。
警視庁の発表によれば、東京を空爆したB25は6機（他は川崎、横須賀、横浜、名古屋、大阪、神戸などへ向かった）で、600m内外の低空で一機ずつばらばらに攻撃を行い、投下弾は爆弾250キロ級6発、焼夷弾は小型エレクトロン452発で、焼失した地域は主として荒川区尾久町、王子区（現在の北区）稲付町、小石川区（現在の文京区）関口水道町、牛込区（現在の新宿区）早稲田鶴巻町、馬場下町など。焼失家屋61棟1227世帯。東京都内での死者は39人、重傷者73人、軽傷者234人。最も犠牲の多かったのは荒川区で、旭電化工場を中心とする尾久町の人口密集地帯が爆撃され、死者10人、重軽傷者48人を出した。

葛飾区の水元国民学校高等科一年生になったばかりの石出巳之助君（当時14歳）は、12時半すぎ、土曜の午前の農業実習を終えて、帰宅しようとしていた。校門を出たところで空襲警報のサイレンを聞いた。北の森の方から、真っ黒い飛行機が現れ、機関車のようなうなりを上げて低空でこちらへ向かってきた。とっさに学校内へ引き返そうとした巳之助君に向かって、B25は機銃掃射してきた。なんとか校舎に飛び込んだが、窓ガラスを貫通した掃射弾が彼の脇腹を直撃した。少年は廊下に倒れ、鮮血に染まった。近くにいた教師らが病院に運んだが、巳之助君は間もなく死亡した。［東京が燃えた日 - 戦争と中学生 - （早乙女 勝元）］
早稲田中学校でも、生徒のひとりが、校庭で焼夷弾の直撃を受けて即死した。東京空襲の犠牲者第一号は、これらなんの罪もない少年たちだったのである。
日本全国数十カ所を奇襲攻撃したドゥリトル隊の16機は、日本本土を離れた後、一機は燃料系統の不具合で最短距離のソ連のウラジオストックに不時着、他の15機は予定どおり麗水に向かうも、中国側との連携不備により飛行場の受け入れ態勢が整わないまま燃料切れとなって、4機は着陸失敗で大破、11機は落下傘での脱出降下（5名死亡）を行った。日本軍の占領区域に降りた8名は日本軍の捕虜となった。そして軍法会議の結果、3名が死刑になった。
この東京初空襲は日米両者にとって大きな意味をもった。真珠湾以降、敗退を続けていたアメリカの国民は、この東京空爆成功のニュースによって大きく戦意を高揚させた。逆に日本の軍部は、神聖な帝都上空を侵されたことで面目を失い、日常の防空防火訓練の強化や、本土防空哨戒線の拡張を目指したミッドウェー島攻略作戦に乗り出すことになる。結果的に、日米の攻守逆転のきっかけとなる出来事だったと言える。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>最初の東京空襲は、1942年（昭和17年）4月18日。太平洋戦争開戦からわずか半年後のことであった。</p>
<p>真珠湾攻撃によって大きな打撃を受けたアメリカ軍は、その報復として、帝都東京への空襲を計画した。日本本土に爆撃機を到達させるために、航続距離の長い陸軍中型爆撃機を、東京まで1200kmの日本の哨戒艇配備線ぎりぎりまで近づけた空母から発艦させるというアイデアを採用した。空母の短い飛行甲板から離陸するために、ノースアメリカンB25爆撃機を軽量化し、飛行士は何度も離陸訓練を行った。</p>
<p>ジェームス H・ドゥリトル中佐率いるB25爆撃機16機を搭載した空母ホーネットは、巡洋艦や駆逐艦などの護衛のもと、1942年4月2日にサンフランシスコを出港し、日本へ向かった。そして4月17日、発艦予定海域の手前で日本軍特設監視艇に発見されたため、予定より若干早く爆撃隊はホーネットを発艦した。</p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/b-25_on_the_deck_of_uss_hornet_during_doolittle_raid-s.jpg" alt="" title="B25 on Hornet" width="400" height="316" class="alignnone size-full wp-image-142" /><br />
<span class="caption">空母ホーネットに搭載されたB25［<a href="http://commons.wikimedia.org/wiki/B-25_Mitchell">Wikimedia Commons</a>］</span></p>
<p>空母ホーネットは、16機の発艦を終えると、日本軍からの攻撃を避けるためにすぐに引き返した。ドゥリトル隊は、空母に戻るのではなく、東京など日本の主要都市を爆撃した後、日本列島を横断して、中国東部の基地に着陸する計画だった。</p>
<p>B25が大海原を飛び越えて日本本土に到着したのは4月18日の正午。東京では皮肉にも折からの防空訓練の最中だった。12時15分にドゥリトル中佐の一番機が東京上空で最初の爆弾を投下した時、多くの人はその機影を訓練のための模擬敵機だと勘違いしたという。空襲警報のサイレンが鳴り響いたのは、その14分も後だった。アメリカ軍の爆撃機が本土上空に現れることなどまだ誰も予想していなかったため、人々は、精神的にも物理的にも無防備だった。ドゥリトル隊の奇襲攻撃は、計画どおり成功したのである。</p>
<p>警視庁の発表によれば、東京を空爆したB25は6機（他は川崎、横須賀、横浜、名古屋、大阪、神戸などへ向かった）で、600m内外の低空で一機ずつばらばらに攻撃を行い、投下弾は爆弾250キロ級6発、焼夷弾は小型エレクトロン452発で、焼失した地域は主として荒川区尾久町、王子区（現在の北区）稲付町、小石川区（現在の文京区）関口水道町、牛込区（現在の新宿区）早稲田鶴巻町、馬場下町など。焼失家屋61棟1227世帯。東京都内での死者は39人、重傷者73人、軽傷者234人。最も犠牲の多かったのは荒川区で、旭電化工場を中心とする尾久町の人口密集地帯が爆撃され、死者10人、重軽傷者48人を出した。</p>
<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=airraiddiarie-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4005000053&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;float:right;margin-left:1em;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p>葛飾区の水元国民学校高等科一年生になったばかりの石出巳之助君（当時14歳）は、12時半すぎ、土曜の午前の農業実習を終えて、帰宅しようとしていた。校門を出たところで空襲警報のサイレンを聞いた。北の森の方から、真っ黒い飛行機が現れ、機関車のようなうなりを上げて低空でこちらへ向かってきた。とっさに学校内へ引き返そうとした巳之助君に向かって、B25は機銃掃射してきた。なんとか校舎に飛び込んだが、窓ガラスを貫通した掃射弾が彼の脇腹を直撃した。少年は廊下に倒れ、鮮血に染まった。近くにいた教師らが病院に運んだが、巳之助君は間もなく死亡した。［<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4005000053?tag=airraiddiarie-22&#038;camp=243&#038;creative=1615&#038;linkCode=as1&#038;creativeASIN=4005000053&#038;adid=0AZ6NG2HF90QGQKKQ5N3&#038;">東京が燃えた日 - 戦争と中学生 -</a> （早乙女 勝元）］</p>
<p>早稲田中学校でも、生徒のひとりが、校庭で焼夷弾の直撃を受けて即死した。東京空襲の犠牲者第一号は、これらなんの罪もない少年たちだったのである。</p>
<p>日本全国数十カ所を奇襲攻撃したドゥリトル隊の16機は、日本本土を離れた後、一機は燃料系統の不具合で最短距離のソ連のウラジオストックに不時着、他の15機は予定どおり麗水に向かうも、中国側との連携不備により飛行場の受け入れ態勢が整わないまま燃料切れとなって、4機は着陸失敗で大破、11機は落下傘での脱出降下（5名死亡）を行った。日本軍の占領区域に降りた8名は日本軍の捕虜となった。そして軍法会議の結果、3名が死刑になった。</p>
<p>この東京初空襲は日米両者にとって大きな意味をもった。真珠湾以降、敗退を続けていたアメリカの国民は、この東京空爆成功のニュースによって大きく戦意を高揚させた。逆に日本の軍部は、神聖な帝都上空を侵されたことで面目を失い、日常の防空防火訓練の強化や、本土防空哨戒線の拡張を目指したミッドウェー島攻略作戦に乗り出すことになる。結果的に、日米の攻守逆転のきっかけとなる出来事だったと言える。</p>
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		<title>作戦任務報告書（Tactical Mission Report）</title>
		<link>http://airraiddiaries.com/?p=139</link>
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		<pubDate>Sun, 04 May 2008 18:00:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[資料]]></category>

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		<description><![CDATA[
作戦任務報告書
第XXI爆撃機集団司令部
作戦任務40番
目標：東京の市街地
飛行1945年3月10日
昭和62年発行の『写真版 東京大空襲の記録（早乙女勝元編著、新潮社）』の中で「数年前」と書かれていることから、恐らく80年代前半のことだと思われるが、米国立公文書館から、東京大空襲に関する米軍側のある重要な機密文書が解禁となった。それが、『作戦任務報告書（Tactical Mission Report）』である。
『作戦任務報告書（Tactical Mission Report）』は、B29の日本本土爆撃に直接的な責任を負う米陸軍マリアナ基地第21爆撃機軍団司令部が、3月10日を中心とする東京空襲をどのように準備し、実施したかを記録したものであり、同司令部の司令官カーチス・E・ルメイ少将が、主要な爆撃ごとにワシントンの航空司令官ならびに関係方面に提出した報告書である。
当時の米軍内向けの資料であることや、作戦の調査記録のためにあらかじめ綿密な準備をしていたことが明らかであることなどから、ここに書かれた内容はかなり事実を正確に表したものだと考えられ、戦後の東京空襲関連の研究者にとって非常に重要な一次情報となった。
1945年3月10日の空襲については、「野戦命令43号　作戦任務40番　目標：日本、東京の市街地」の部としてまとめられており、1945年4月15日付けでルメイのサイン入りで発行されている。内容は、次のような事項に関する詳細な報告である。
戦略と計画についての報告

攻撃日の選定について
攻撃目標について
照準点について
爆撃の手順について
爆弾の搭載量について
航行経路について
飛行技術について
レーダーの計画と対策について
空海救助計画について

任務の実行結果の報告

離陸について
往路について
目標上空について
帰投路について
着陸について

この3月10日空襲の部には「まえがき」がつけられている。作戦任務報告書に「まえがき」がつくのは例外的なことだという［新版 東京を爆撃せよ（奥住喜重・早乙女勝元）］。それだけこの日の作戦が特別なものであったことを示唆している。
「まえがき」では、まず、この3月10日の作戦が、B29によるそれまでの東京空爆の方法、つまり高高度からの昼間精密爆撃によって軍事工場などを攻撃するというスタイルを大きく変更し、低高度からの夜間焼夷空襲を行うことにした、と書かれている。その利点が五つあげられている。

気象上の条件がよくなる
低高度なら、日本上空の強い偏西風の影響を受けにくい。
レーダー装置が使いやすくなる
低高度の方がレーダーが鮮明になる。
爆弾搭載量が増加する
低高度なら燃料を減らせ、また夜間なら機銃類を減らせる。その分爆弾を多く積める。
整備が一層簡単になり改善される
低高度の飛行はエンジンへの負担が少ないので、整備上の問題が減る。
爆撃精度がよくなる
低高度なら爆撃誤差が少ない。一般的に敵の反撃を受けやすくなると考えられるが、現状日本側の防衛能力は低いと考えられる。

そして「まえがき」の最後には、次のような一文が加えられている。
　これら一連の空襲の目的が、一般市民を無差別に爆撃することでなかったことは注目すべきである。その目的は、これら4つの主要都市（東京、名古屋、大阪、神戸）の市街地に集中している工業的および戦略的な目標を破壊することであった。
1943年ごろから、アメリカ政府は、日本の都市への大規模焼夷弾攻撃を検討していたという。日本の都市は極めて燃えやすく、また日本の工業目標は少数の大都市に集中しており、密集した民家に囲まれている。つまり特定の施設をピンポイントで狙う精密爆撃よりも、街全体を焼き払う焼夷攻撃の方がずっと効果が高いという考えだ。

このような戦術に対して、当然、人道的な見地から多くの反対意見があった。陸軍航空司令官のアーノルド大将も、はじめは工業目標に対する精密爆撃に期待していた。しかし莫大な費用を投じて導入したB29による精密爆撃の成果が上がらなかったため、やがて考えを変え、都市を焼き払うという作戦への移行を決意する。
「まえがき」の最後の一文においてルメイは、3月10日から開始された市街地への無差別絨毯爆撃の正当性を不自然なほど強調しているが、これは、反対派の世論を意識したものと考えられるだろう。しかし実行された作戦は、一般市民への無差別爆撃以外の何ものでもなく、工場や基地の破壊よりも、人の命と生活を大規模に奪い取ることを目的としていた。
客観的な事実を克明に記録したこの報告書において、この「まえがき」の一文だけが、妙に強引な詭弁であるように見えて、興味深い。
『作戦任務報告書』の3月10日の部の全訳を、『新版 東京を爆撃せよ（奥住喜重・早乙女勝元 共著、三省堂）』で読むことができる。また東京大空襲・戦災資料センターには同報告書のコピーが展示されている。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img style="border: 1px solid #cccccc; margin-left: 1em;" src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/tactical_mission_report-245x300.gif" alt="" title="tactical_mission_report" width="245" height="300" class="alignright size-medium wp-image-140" /></p>
<p>作戦任務報告書<br />
第XXI爆撃機集団司令部<br />
作戦任務40番<br />
目標：東京の市街地<br />
飛行1945年3月10日</p>
<p>昭和62年発行の『写真版 東京大空襲の記録（早乙女勝元編著、新潮社）』の中で「数年前」と書かれていることから、恐らく80年代前半のことだと思われるが、米国立公文書館から、東京大空襲に関する米軍側のある重要な機密文書が解禁となった。それが、『作戦任務報告書（Tactical Mission Report）』である。</p>
<p>『作戦任務報告書（Tactical Mission Report）』は、B29の日本本土爆撃に直接的な責任を負う米陸軍マリアナ基地第21爆撃機軍団司令部が、3月10日を中心とする東京空襲をどのように準備し、実施したかを記録したものであり、同司令部の司令官カーチス・E・ルメイ少将が、主要な爆撃ごとにワシントンの航空司令官ならびに関係方面に提出した報告書である。</p>
<p>当時の米軍内向けの資料であることや、作戦の調査記録のためにあらかじめ綿密な準備をしていたことが明らかであることなどから、ここに書かれた内容はかなり事実を正確に表したものだと考えられ、戦後の東京空襲関連の研究者にとって非常に重要な一次情報となった。</p>
<p>1945年3月10日の空襲については、「野戦命令43号　作戦任務40番　目標：日本、東京の市街地」の部としてまとめられており、1945年4月15日付けでルメイのサイン入りで発行されている。内容は、次のような事項に関する詳細な報告である。</p>
<p>戦略と計画についての報告</p>
<ul>
<li>攻撃日の選定について</li>
<li>攻撃目標について</li>
<li>照準点について</li>
<li>爆撃の手順について</li>
<li>爆弾の搭載量について</li>
<li>航行経路について</li>
<li>飛行技術について</li>
<li>レーダーの計画と対策について</li>
<li>空海救助計画について</li>
</ul>
<p>任務の実行結果の報告</p>
<ul>
<li>離陸について</li>
<li>往路について</li>
<li>目標上空について</li>
<li>帰投路について</li>
<li>着陸について</li>
</ul>
<p>この3月10日空襲の部には「まえがき」がつけられている。作戦任務報告書に「まえがき」がつくのは例外的なことだという［新版 東京を爆撃せよ（奥住喜重・早乙女勝元）］。それだけこの日の作戦が特別なものであったことを示唆している。</p>
<p>「まえがき」では、まず、この3月10日の作戦が、B29によるそれまでの東京空爆の方法、つまり高高度からの昼間精密爆撃によって軍事工場などを攻撃するというスタイルを大きく変更し、低高度からの夜間焼夷空襲を行うことにした、と書かれている。その利点が五つあげられている。</p>
<ol>
<li>気象上の条件がよくなる<br />
低高度なら、日本上空の強い偏西風の影響を受けにくい。</li>
<li>レーダー装置が使いやすくなる<br />
低高度の方がレーダーが鮮明になる。</li>
<li>爆弾搭載量が増加する<br />
低高度なら燃料を減らせ、また夜間なら機銃類を減らせる。その分爆弾を多く積める。</li>
<li>整備が一層簡単になり改善される<br />
低高度の飛行はエンジンへの負担が少ないので、整備上の問題が減る。</li>
<li>爆撃精度がよくなる<br />
低高度なら爆撃誤差が少ない。一般的に敵の反撃を受けやすくなると考えられるが、現状日本側の防衛能力は低いと考えられる。</li>
</ol>
<p>そして「まえがき」の最後には、次のような一文が加えられている。</p>
<blockquote><p>　これら一連の空襲の目的が、一般市民を無差別に爆撃することでなかったことは注目すべきである。その目的は、これら4つの主要都市（東京、名古屋、大阪、神戸）の市街地に集中している工業的および戦略的な目標を破壊することであった。</p></blockquote>
<p>1943年ごろから、アメリカ政府は、日本の都市への大規模焼夷弾攻撃を検討していたという。日本の都市は極めて燃えやすく、また日本の工業目標は少数の大都市に集中しており、密集した民家に囲まれている。つまり特定の施設をピンポイントで狙う精密爆撃よりも、街全体を焼き払う焼夷攻撃の方がずっと効果が高いという考えだ。</p>
<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=airraiddiarie-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4385363218&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="float: right; margin-left: 1em; width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p>このような戦術に対して、当然、人道的な見地から多くの反対意見があった。陸軍航空司令官のアーノルド大将も、はじめは工業目標に対する精密爆撃に期待していた。しかし莫大な費用を投じて導入したB29による精密爆撃の成果が上がらなかったため、やがて考えを変え、都市を焼き払うという作戦への移行を決意する。</p>
<p>「まえがき」の最後の一文においてルメイは、3月10日から開始された市街地への無差別絨毯爆撃の正当性を不自然なほど強調しているが、これは、反対派の世論を意識したものと考えられるだろう。しかし実行された作戦は、一般市民への無差別爆撃以外の何ものでもなく、工場や基地の破壊よりも、人の命と生活を大規模に奪い取ることを目的としていた。</p>
<p>客観的な事実を克明に記録したこの報告書において、この「まえがき」の一文だけが、妙に強引な詭弁であるように見えて、興味深い。</p>
<p>『作戦任務報告書』の3月10日の部の全訳を、『<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4385363218?tag=airraiddiarie-22&#038;camp=243&#038;creative=1615&#038;linkCode=as1&#038;creativeASIN=4385363218&#038;adid=0YPDHGH8QR8WB9TG9HW3&#038;">新版 東京を爆撃せよ</a>（奥住喜重・早乙女勝元 共著、三省堂）』で読むことができる。また<a href="http://www.tokyo-sensai.net/">東京大空襲・戦災資料センター</a>には同報告書のコピーが展示されている。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>東京大空襲 - 昭和20年3月10日の記録 -</title>
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		<pubDate>Sat, 26 Apr 2008 15:27:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[資料]]></category>

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		<description><![CDATA[

タイトル：東京大空襲 - 昭和20年3月10日の記録 -
著者：早乙女勝元
出版者：岩波書店
発行日：1971年1月28日
このサイトですでに何度も引用しているが、東京大空襲の壮絶な体験と被害記録をわずか230ページの中に情熱的に凝縮し、東京空襲報道ブームの火付け役となった金字塔とも言える名著。
1971年、「東京空襲を記録する会」の創立と『東京大空襲・戦災史』の編纂に取り組んでいた著者が、先行的に新書の形態でこの本を出した意義は大きい。太平洋戦争の戦況的背景や被災状況のデータといった分析的観点よりも、まず著者は、自身も炎の夜を逃げ延びた市民のひとりとして、東京大空襲の圧倒的な破壊力に地上の視点から迫っていく。読者はその語りかけるような一人称のストーリーに引き込まれ、焼夷弾の嵐を追体験し、やがて東京大空襲、ひいては近代戦争がもたらす蛮行の本質に気づくことになる。
この本の構成は緻密に計算されている。昭和42年、深川の地下鉄工事の際に、地中から空襲被害者の遺骨が発見されるところから話は始まる。そして舞台は1945年3月9日の夜に移され、何人かを主人公としたオムニバス形式で「あの夜」の体験談が語られていく。少年時代の著者自身も主人公のひとりとして登場し、燃え盛る町を逃げ惑う。
各体験談は時間軸を共有しながら同時進行し、下町全域で数百万人が遭遇していたであろう危機的な状況を浮き彫りにする。主観と客観がダイナミックに切り替わり、映画的手法でシーンとシーンが繋ぎ合わされる。そのドラマチックな展開は、吉村昭の小説にも似て、記録文学として相当の演出効果をあげている。
著者はこの本の後も、現在まで、東京大空襲に関する数多くの本を出しているが、『東京大空襲 - 昭和20年3月10日の記録 -』以上の「効果」を持ったものはないだろう。ここでいう「効果」とは、読んだ者を次の行動に移させる力のことである。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=airraiddiarie-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4004150213&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="float: right; width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></p>
<p><img style="margin-right: 1em; border: 1px solid #cccccc;" src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/tokyo_daikushu_saotome.jpg" alt="" title="tokyo_daikushu_saotome" width="152" height="250" class="alignleft size-full wp-image-138" /><br />
タイトル：東京大空襲 - 昭和20年3月10日の記録 -<br />
著者：早乙女勝元<br />
出版者：岩波書店<br />
発行日：1971年1月28日</p>
<p>このサイトですでに何度も引用しているが、東京大空襲の壮絶な体験と被害記録をわずか230ページの中に情熱的に凝縮し、東京空襲報道ブームの火付け役となった金字塔とも言える名著。</p>
<p>1971年、「東京空襲を記録する会」の創立と『東京大空襲・戦災史』の編纂に取り組んでいた著者が、先行的に新書の形態でこの本を出した意義は大きい。太平洋戦争の戦況的背景や被災状況のデータといった分析的観点よりも、まず著者は、自身も炎の夜を逃げ延びた市民のひとりとして、東京大空襲の圧倒的な破壊力に地上の視点から迫っていく。読者はその語りかけるような一人称のストーリーに引き込まれ、焼夷弾の嵐を追体験し、やがて東京大空襲、ひいては近代戦争がもたらす蛮行の本質に気づくことになる。</p>
<p>この本の構成は緻密に計算されている。昭和42年、深川の地下鉄工事の際に、地中から空襲被害者の遺骨が発見されるところから話は始まる。そして舞台は1945年3月9日の夜に移され、何人かを主人公としたオムニバス形式で「あの夜」の体験談が語られていく。少年時代の著者自身も主人公のひとりとして登場し、燃え盛る町を逃げ惑う。</p>
<p>各体験談は時間軸を共有しながら同時進行し、下町全域で数百万人が遭遇していたであろう危機的な状況を浮き彫りにする。主観と客観がダイナミックに切り替わり、映画的手法でシーンとシーンが繋ぎ合わされる。そのドラマチックな展開は、吉村昭の小説にも似て、記録文学として相当の演出効果をあげている。</p>
<p>著者はこの本の後も、現在まで、東京大空襲に関する数多くの本を出しているが、『東京大空襲 - 昭和20年3月10日の記録 -』以上の「効果」を持ったものはないだろう。ここでいう「効果」とは、読んだ者を次の行動に移させる力のことである。</p>
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		</item>
		<item>
		<title>人間の血痕と脂肪がしみこんで地図みたいになっていた</title>
		<link>http://airraiddiaries.com/?p=136</link>
		<comments>http://airraiddiaries.com/?p=136#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 17 Apr 2008 15:55:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[体験談]]></category>

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		<description><![CDATA[浅草区千束町一の一二三に一家六人で住んでいた菊島幸治さん（当時13歳）は、3月9日の夜、8時頃に布団に入った。夜間空襲の際にすぐに起きだせるよう、服を着たまま寝た。これは当時のほとんどの人がしていたことである。
10時半の警戒警報によって一度起きたが、二機のB29は南方洋上に遠ざかったという情報に、再び寝床に戻った。
やがて大空襲が始まった。
菊池さんの家も二階から燃えだしたため、家族は避難することにした。父親の判断で、隅田川の方へ逃げることになった。
考えてみると、これが最初の、しかも最大の失敗でしたね。東の隅田川方面ではなく、反対がわの西の入谷、根岸、上野をめざした人は、ほとんど助かったのです。（中略）浅草の地理にくわしいはずの父が、なぜ西へ自転車のハンドルを向けなかったのか、（中略）それがいまでも残念でならないのですよ。［東京大空襲 昭和20年3月10日の記録（早乙女 勝元）］
辺りはまだそれほど火がまわっていなかったが、B29が超低空で次々と焼夷弾を投下しているのが見えた。強烈な北風の中、一家は無言で走った。
途中、知人の家に寄ったが誰もおらず、そのまま隅田川に向かって行った。そして急流のようになってきた人波に呑まれ、押されるようにして、言問橋に辿り着いた。
言問橋の上は、欄干がへし曲がるのではないかと思うばかりの大群衆で溢れていた。皆それぞれ荷物を持っており、リヤカー、自転車なども多かった。川の両岸から、対岸に逃げようとする人々が殺到し、橋の上は身動きのとれない状態となった。
B29の爆音、対岸を走る消防車のサイレン、焔を吸い込むような熱い空。それに泣き叫ぶ子どもの声。いま思い出しても、身の毛のよだつような光景です。［東京大空襲 昭和20年3月10日の記録（早乙女 勝元）］
一家は人混みの中をなんとか橋の中ほどまで進んだ。そこまでくると、もはや橋を渡りおえても安全ではないことが分かったが、前後から押される圧力でどうすることもできない。
そうしているうちに、浅草方面からの火の粉が橋の上の人々の頭上に吹き荒れてきた。そしてあっというまに荷物に火がついた。火は荷物から荷物へと燃え移り、悲鳴とどよめきで橋上は騒然となった。
このままではすぐに橋全体が火に包まれる、もう一刻の猶予もない、と思った菊池さんは、「ぼく先にいく！」と言って一番下の妹の手をつかんで対岸に向かって走り出した。
二人は人混みをかきわけ、倒れている人をふんづけたり、荷物の上を乗り越えたりしながら、がむしゃらに突き進んだ。子どもだからできたことだろう。そしてなんとか橋を渡ることに成功した。
その後二人は火炎とどろく道を這うように進み、錦糸公園まで逃げ延びた。そしてなんとか朝を迎えることができた。
錦糸公園を後にし、黒焦げの死体が路上に散乱する中、再び家の方へ戻ることにした。
そして数時間前に家族四人と別れた言問橋まで来た時、息の根が止まった。
言問橋の、その凄絶さといったら、これはもうたとえようがありません。とにかく、見渡すかぎり山と積まれた焼死体橋なのですよ。ええ、黒焦げの死体だらけなのです。架線が空中に渦をまいてまして、そこにも片手ひっかけてぶらさがっている死体があるのですよ。（中略）足もとの橋の上に、人間の血痕と脂肪がしみこんで地図みたいになっていたのを、いまも忘れることができません。［東京大空襲 昭和20年3月10日の記録（早乙女 勝元）］
あふれる遺体の隙間をぬうように橋を渡った菊島さんは、千束の自宅まで戻ったが、家は焼け落ちていた。そして泣き出す八歳の妹をなだめながら、近くの金竜小学校で家族が帰ってくるのを待った。
しかしいつまで待っても、残りの家族が帰ってくることはなかった。
大きな地図で見る
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>浅草区千束町一の一二三に一家六人で住んでいた菊島幸治さん（当時13歳）は、3月9日の夜、8時頃に布団に入った。夜間空襲の際にすぐに起きだせるよう、服を着たまま寝た。これは当時のほとんどの人がしていたことである。</p>
<p>10時半の警戒警報によって一度起きたが、二機のB29は南方洋上に遠ざかったという情報に、再び寝床に戻った。</p>
<p>やがて大空襲が始まった。</p>
<p>菊池さんの家も二階から燃えだしたため、家族は避難することにした。父親の判断で、隅田川の方へ逃げることになった。</p>
<blockquote><p>考えてみると、これが最初の、しかも最大の失敗でしたね。東の隅田川方面ではなく、反対がわの西の入谷、根岸、上野をめざした人は、ほとんど助かったのです。（中略）浅草の地理にくわしいはずの父が、なぜ西へ自転車のハンドルを向けなかったのか、（中略）それがいまでも残念でならないのですよ。［東京大空襲 昭和20年3月10日の記録（早乙女 勝元）］</p></blockquote>
<p>辺りはまだそれほど火がまわっていなかったが、B29が超低空で次々と焼夷弾を投下しているのが見えた。強烈な北風の中、一家は無言で走った。</p>
<p>途中、知人の家に寄ったが誰もおらず、そのまま隅田川に向かって行った。そして急流のようになってきた人波に呑まれ、押されるようにして、言問橋に辿り着いた。</p>
<p>言問橋の上は、欄干がへし曲がるのではないかと思うばかりの大群衆で溢れていた。皆それぞれ荷物を持っており、リヤカー、自転車なども多かった。川の両岸から、対岸に逃げようとする人々が殺到し、橋の上は身動きのとれない状態となった。</p>
<blockquote><p>B29の爆音、対岸を走る消防車のサイレン、焔を吸い込むような熱い空。それに泣き叫ぶ子どもの声。いま思い出しても、身の毛のよだつような光景です。［東京大空襲 昭和20年3月10日の記録（早乙女 勝元）］</p></blockquote>
<p>一家は人混みの中をなんとか橋の中ほどまで進んだ。そこまでくると、もはや橋を渡りおえても安全ではないことが分かったが、前後から押される圧力でどうすることもできない。</p>
<p>そうしているうちに、浅草方面からの火の粉が橋の上の人々の頭上に吹き荒れてきた。そしてあっというまに荷物に火がついた。火は荷物から荷物へと燃え移り、悲鳴とどよめきで橋上は騒然となった。</p>
<p>このままではすぐに橋全体が火に包まれる、もう一刻の猶予もない、と思った菊池さんは、「ぼく先にいく！」と言って一番下の妹の手をつかんで対岸に向かって走り出した。</p>
<p>二人は人混みをかきわけ、倒れている人をふんづけたり、荷物の上を乗り越えたりしながら、がむしゃらに突き進んだ。子どもだからできたことだろう。そしてなんとか橋を渡ることに成功した。</p>
<p>その後二人は火炎とどろく道を這うように進み、<a href="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-trackback.php?p=7">錦糸公園まで逃げ延びた</a>。そしてなんとか朝を迎えることができた。</p>
<p>錦糸公園を後にし、黒焦げの死体が路上に散乱する中、再び家の方へ戻ることにした。</p>
<p>そして数時間前に家族四人と別れた言問橋まで来た時、息の根が止まった。</p>
<blockquote><p>言問橋の、その凄絶さといったら、これはもうたとえようがありません。とにかく、見渡すかぎり山と積まれた焼死体橋なのですよ。ええ、黒焦げの死体だらけなのです。架線が空中に渦をまいてまして、そこにも片手ひっかけてぶらさがっている死体があるのですよ。（中略）足もとの橋の上に、人間の血痕と脂肪がしみこんで地図みたいになっていたのを、いまも忘れることができません。［東京大空襲 昭和20年3月10日の記録（早乙女 勝元）］</p></blockquote>
<p>あふれる遺体の隙間をぬうように橋を渡った菊島さんは、千束の自宅まで戻ったが、家は焼け落ちていた。そして泣き出す八歳の妹をなだめながら、近くの金竜小学校で家族が帰ってくるのを待った。</p>
<p>しかしいつまで待っても、残りの家族が帰ってくることはなかった。</p>
<p><iframe width="100%" height="480" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;s=AARTsJqvZGNFNZGdGyGSGL_AJ9T93h9eYA&amp;msa=0&amp;msid=109622826284638235710.0004481847d01dde74be2&amp;ll=35.71589,139.807549&amp;spn=0.016725,0.027466&amp;z=15&amp;iwloc=000448a4222f1402d07ce&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=109622826284638235710.0004481847d01dde74be2&amp;ll=35.71589,139.807549&amp;spn=0.016725,0.027466&amp;z=15&amp;iwloc=000448a4222f1402d07ce&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small></p>
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		<item>
		<title>言問橋</title>
		<link>http://airraiddiaries.com/?p=126</link>
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		<pubDate>Sun, 13 Apr 2008 17:21:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[場所・慰霊碑・戦跡]]></category>

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		<description><![CDATA[両国にある江戸東京博物館の裏側、つまり横網町公園側の屋外通路に、古びた手すりのようなものが立っている。注意して見なければ気づかないような存在だが、これは博物館の展示物のひとつで、言問橋にあった欄干とその縁石である。

江戸東京博物館にある言問橋の欄干
次のような説明書きがある。
言問橋の欄干と縁石
言問橋は、1928年（昭和3）に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年（昭和20）3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち大火炎に包まれた。
橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。
1992年（平成4）の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。
墨堤をはじめ、三囲神社、長命寺などの一帯は江戸以来の名所であり、待乳山の聖天から浅草寺の大屋根に続く風景は、芸能の舞台において隅田川を示す代表的な風景とされている。またこの付近には、隅田川の渡し船として「竹屋の渡し」と「山の宿の渡し」があったが、その中間に、関東大震災の復興事業として、言問橋がかけられた。［すみだハンディガイド（墨田区文化観光協会）］
言問の名称は、在原業平の歌
「名にし負はば　いざ言問わむ都鳥　我が思う人は　ありやなしやと」
に縁をもつ。
両国橋や天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋であり［ウィキペディア］、辺りの風致との調和を考えて欄干が低く、船の往来が頻繁なため橋脚も少ない。脚間の距離の長さは、竣工当時、世界的なものあったという［一九三三 大東京寫眞案内（博文館）］。

完成後間もない言問橋［一九三三 大東京寫眞案内（博文館）］

完成時の橋上［関東大震災復興工事関係写真］
3月10日の東京大空襲では、当時の浅草区、本所区、城東区、深川区などを中心とした広域が被災した。特に、無数の運河にかかる橋の上や、国民学校（現在の小学校）では、逃げ惑う群衆が殺到し、そこに火炎が燃え移り、大勢が集中的に犠牲になった。中でも言問橋の惨劇は筆舌に尽くしがたく、東京大空襲の被災体験を代表するエピソードとして後の人びとを震撼させてきた。
空襲時、降り注ぐ焼夷弾の雨の中、人々はどこへ逃げればよいのか分からなかった。なぜなら、どちらを向いても大火災が広がっていたからである。自然と足は水辺の方へ向かった。本所区をはじめ、当時の江東下町地域には今よりももっと多くの運河が縦横に流れており、人々は川に囲まれた大小のブロックの中に住んでいた。火の広がりは川で止まるだろうから、橋を渡って向こう岸へ行けば安全だと考えたのだ。しかし、状況は対岸の人々にとっても同じであった。大火災は複数の地域で同時多発的に発生していたし、猛烈な火炎旋風は周囲の空気を白熱化し、川を超えて対岸に飛び移った。行き場を失った避難民はやがて殺気だった群衆となり、川の両側から橋になだれ込んだ。
言問橋は、橋長238.7m、幅員 22.0m という非常に大きな橋だが、その上も人と荷物で溢れかえり、押し合いへしあいの大混乱となった。次々に浅草側と向島側の両岸から人が押し寄せるので、橋の上から引き返すこともできない。出動してきた消防車も人ごみにのまれて立ち往生し、人の流れを阻害する要因となった。やがて舞い来る火の粉が衣類や荷物を焼きはじめ、燃え上がったかと思うと、火はすさまじい勢いで橋の上をなめ広がり、またたくまに人々を劫火の中に沈めてしまった。まさに阿鼻叫喚の巷であったという。欄干を乗り越えて川に飛び込んだ者もいたが、ほとんどは助からなかったという。
その光景を実際に目にした狩野光男氏は当時14歳。後年、画家として精緻な体験画を描いた。

狩野氏の描く言問橋の惨劇
3月10日、自宅のある浅草区千足町3-11（現在台東区浅草5丁目）から、言問橋近くの隅田公園（浅草川）に至った。公園は人が一杯で大混乱となり、それまで一緒だった家族とはぐれてしまった。呼吸もくるしく、雨のようにふりそそぐ火の粉の熱さに耐えかね、隅田川に飛び込んだ。私は、橋下の石段に割り込んで入り、そこで燃えあがる言問橋を見あげた。橋上は燃えあがり、人々は欄干にはりついていた。
［あの日を忘れない 描かれた東京大空襲（すみだ郷土資料館）- 言問橋炎上 家族全員を亡くした橋の記憶（狩野光男）］
橋の上にいた人たちはほとんど焼け死んでしまったはずだから、言問橋の惨劇を間近で目撃した狩野氏の体験は非常に貴重なものだろう。またその悲惨なエピソードを克明に描き出した氏の作品は、東京大空襲の夜、約300機のB29から投下された1700トンにもおよぶ焼夷弾の嵐の下でいったい何が起きていたのかをビジュアルに再生した傑作であり、我々の想像力を痛烈に刺激するイコンとして機能している。
3月10日の朝が明けると、言問橋は死体で埋め尽くされ、足の踏み場もなかったという。死体は、黒く炭化したものや赤むくれのもの、未だくすぶりつづけているもの、マネキン人形のようなものなど、様々であった。
死体の山となった言問橋の凄惨な様子は、多くの人が目にしている。逃げ惑いながらかろうじて一命をとりとめた被災者達が、朝になって、自分の家へ引き返そうと言問橋に差し掛かったのである。死体を跨いだり踏んだりせずに橋を渡ることはできなかったという。
昼ごろになると、軍関係者が来て、遺体をスコップですくってトラックに積んでいった。体の原型をとどめない、男とも女ともわからない断片を、まとめてかき集めた。多くの遺体は身元を確認できる状態ではなく、そのまま仮埋葬地へと運ばれて埋められた。橋上には焼け死んだ人々の血痕や脂の痕が残った。
現在も、両岸に近い部分の石柱は当時のままであり、黒く焼けただれた痕が残っている。

現在の言問橋［ウィキペディア］

現在の言問橋

黒く焦げた痕が残る親柱

黒く焦げた痕が残る石柱
いったい、空襲の夜に言問橋の上で何人が亡くなったのだろうか。いくつかの文献を当たってみたが、はっきりとした数字を探し出すことはできなかった。しかし橋上の面積から考えて、およそ5000人から1万人が犠牲になったのではないかと思われる。（菊川橋は面積にして言問橋の5分の1程度だが、約3000人が亡くなったという。）
先日、日本テレビで、東京大空襲をテーマにしたドラマを放映していたが、その中で、言問橋の惨状を描いたシーンがあった。当時の橋の一部を再現したセットを使って、押し寄せる群衆の混乱と、その人々が次々と炎にのみこまれていく様子が再現されていた。それが実際の状況にどの程度近いのか分からないが、やはり映像による表現にはインパクトがあった。
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]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>両国にある江戸東京博物館の裏側、つまり横網町公園側の屋外通路に、古びた手すりのようなものが立っている。注意して見なければ気づかないような存在だが、これは博物館の展示物のひとつで、言問橋にあった欄干とその縁石である。</p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/dsc00434.jpg" alt="" title="言問橋の欄干" width="400" height="300" class="alignnone size-full wp-image-127" /><br />
<span class="caption">江戸東京博物館にある言問橋の欄干</span></p>
<p>次のような説明書きがある。</p>
<blockquote><p>言問橋の欄干と縁石<br />
言問橋は、1928年（昭和3）に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年（昭和20）3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち大火炎に包まれた。<br />
橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。<br />
1992年（平成4）の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。</p></blockquote>
<p>墨堤をはじめ、三囲神社、長命寺などの一帯は江戸以来の名所であり、待乳山の聖天から浅草寺の大屋根に続く風景は、芸能の舞台において隅田川を示す代表的な風景とされている。またこの付近には、隅田川の渡し船として「竹屋の渡し」と「山の宿の渡し」があったが、その中間に、関東大震災の復興事業として、言問橋がかけられた。［すみだハンディガイド（墨田区文化観光協会）］</p>
<p>言問の名称は、在原業平の歌<br />
「名にし負はば　いざ言問わむ都鳥　我が思う人は　ありやなしやと」<br />
に縁をもつ。</p>
<p>両国橋や天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋であり［<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/言問橋">ウィキペディア</a>］、辺りの風致との調和を考えて欄干が低く、船の往来が頻繁なため橋脚も少ない。脚間の距離の長さは、竣工当時、世界的なものあったという［一九三三 大東京寫眞案内（博文館）］。</p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/kototoibashi_brandnew.jpg" alt="" title="完成後間もない言問橋" width="400" height="245" class="alignnone size-full wp-image-133" /><br />
<span class="caption">完成後間もない言問橋［一九三三 大東京寫眞案内（博文館）］</span></p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/kototoibashi-ue.jpg" alt="" title="完成時の橋上" width="400" height="271" class="alignnone size-full wp-image-135" /><br />
<span class="caption">完成時の橋上［<a href="http://library.jsce.or.jp/Image_DB/shinsai/kanto/index.html">関東大震災復興工事関係写真</a>］</span></p>
<p>3月10日の東京大空襲では、当時の浅草区、本所区、城東区、深川区などを中心とした広域が被災した。特に、無数の運河にかかる橋の上や、国民学校（現在の小学校）では、逃げ惑う群衆が殺到し、そこに火炎が燃え移り、大勢が集中的に犠牲になった。中でも言問橋の惨劇は筆舌に尽くしがたく、東京大空襲の被災体験を代表するエピソードとして後の人びとを震撼させてきた。</p>
<p>空襲時、降り注ぐ焼夷弾の雨の中、人々はどこへ逃げればよいのか分からなかった。なぜなら、どちらを向いても大火災が広がっていたからである。自然と足は水辺の方へ向かった。本所区をはじめ、当時の江東下町地域には今よりももっと多くの運河が縦横に流れており、人々は川に囲まれた大小のブロックの中に住んでいた。火の広がりは川で止まるだろうから、橋を渡って向こう岸へ行けば安全だと考えたのだ。しかし、状況は対岸の人々にとっても同じであった。大火災は複数の地域で同時多発的に発生していたし、猛烈な火炎旋風は周囲の空気を白熱化し、川を超えて対岸に飛び移った。行き場を失った避難民はやがて殺気だった群衆となり、川の両側から橋になだれ込んだ。</p>
<p>言問橋は、橋長238.7m、幅員 22.0m という非常に大きな橋だが、その上も人と荷物で溢れかえり、押し合いへしあいの大混乱となった。次々に浅草側と向島側の両岸から人が押し寄せるので、橋の上から引き返すこともできない。出動してきた消防車も人ごみにのまれて立ち往生し、人の流れを阻害する要因となった。やがて舞い来る火の粉が衣類や荷物を焼きはじめ、燃え上がったかと思うと、火はすさまじい勢いで橋の上をなめ広がり、またたくまに人々を劫火の中に沈めてしまった。まさに阿鼻叫喚の巷であったという。欄干を乗り越えて川に飛び込んだ者もいたが、ほとんどは助からなかったという。</p>
<p>その光景を実際に目にした狩野光男氏は当時14歳。後年、画家として精緻な体験画を描いた。</p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/kototoibashi.jpg" alt="" title="言問橋 狩野氏の作品" width="150" height="190" class="alignnone size-full wp-image-132" /><br />
<span class="caption"><a href="http://www.kikanshi.co.jp/goods/kanou/kanou.htm">狩野氏の描く言問橋の惨劇</a></span></p>
<blockquote><p>3月10日、自宅のある浅草区千足町3-11（現在台東区浅草5丁目）から、言問橋近くの隅田公園（浅草川）に至った。公園は人が一杯で大混乱となり、それまで一緒だった家族とはぐれてしまった。呼吸もくるしく、雨のようにふりそそぐ火の粉の熱さに耐えかね、隅田川に飛び込んだ。私は、橋下の石段に割り込んで入り、そこで燃えあがる言問橋を見あげた。橋上は燃えあがり、人々は欄干にはりついていた。<br />
［あの日を忘れない 描かれた東京大空襲（すみだ郷土資料館）- 言問橋炎上 家族全員を亡くした橋の記憶（狩野光男）］</p></blockquote>
<p>橋の上にいた人たちはほとんど焼け死んでしまったはずだから、言問橋の惨劇を間近で目撃した狩野氏の体験は非常に貴重なものだろう。またその悲惨なエピソードを克明に描き出した氏の作品は、東京大空襲の夜、約300機のB29から投下された1700トンにもおよぶ焼夷弾の嵐の下でいったい何が起きていたのかをビジュアルに再生した傑作であり、我々の想像力を痛烈に刺激するイコンとして機能している。</p>
<p>3月10日の朝が明けると、言問橋は死体で埋め尽くされ、足の踏み場もなかったという。死体は、黒く炭化したものや赤むくれのもの、未だくすぶりつづけているもの、マネキン人形のようなものなど、様々であった。</p>
<p>死体の山となった言問橋の凄惨な様子は、多くの人が目にしている。逃げ惑いながらかろうじて一命をとりとめた被災者達が、朝になって、自分の家へ引き返そうと言問橋に差し掛かったのである。死体を跨いだり踏んだりせずに橋を渡ることはできなかったという。</p>
<p>昼ごろになると、軍関係者が来て、遺体をスコップですくってトラックに積んでいった。体の原型をとどめない、男とも女ともわからない断片を、まとめてかき集めた。多くの遺体は身元を確認できる状態ではなく、そのまま仮埋葬地へと運ばれて埋められた。橋上には焼け死んだ人々の血痕や脂の痕が残った。</p>
<p>現在も、両岸に近い部分の石柱は当時のままであり、黒く焼けただれた痕が残っている。</p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/kototoibasgi.jpg" alt="" title="言問橋" width="352" height="288" class="alignnone size-full wp-image-131" /><br />
<span class="caption">現在の言問橋［<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/言問橋">ウィキペディア</a>］</span></p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/dsc01234.jpg" alt="" title="言問橋" width="400" height="300" class="alignnone size-full wp-image-130" /><br />
<span class="caption">現在の言問橋</span></p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/dsc01224.jpg" alt="" title="言問橋の親柱" width="400" height="300" class="alignnone size-full wp-image-128" /><br />
<span class="caption">黒く焦げた痕が残る親柱</span></p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/dsc01225.jpg" alt="" title="言問橋の石柱" width="300" height="400" class="alignnone size-full wp-image-129" /><br />
<span class="caption">黒く焦げた痕が残る石柱</span></p>
<p>いったい、空襲の夜に言問橋の上で何人が亡くなったのだろうか。いくつかの文献を当たってみたが、はっきりとした数字を探し出すことはできなかった。しかし橋上の面積から考えて、およそ5000人から1万人が犠牲になったのではないかと思われる。（菊川橋は面積にして言問橋の5分の1程度だが、約3000人が亡くなったという。）</p>
<p>先日、日本テレビで、東京大空襲をテーマにしたドラマを放映していたが、その中で、言問橋の惨状を描いたシーンがあった。当時の橋の一部を再現したセットを使って、押し寄せる群衆の混乱と、その人々が次々と炎にのみこまれていく様子が再現されていた。それが実際の状況にどの程度近いのか分からないが、やはり映像による表現にはインパクトがあった。</p>
<p><iframe width="100%" height="480" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;s=AARTsJqvZGNFNZGdGyGSGL_AJ9T93h9eYA&amp;msa=0&amp;msid=109622826284638235710.0004481847d01dde74be2&amp;ll=35.71589,139.807549&amp;spn=0.016725,0.027466&amp;z=15&amp;iwloc=000448a4222f1402d07ce&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=109622826284638235710.0004481847d01dde74be2&amp;ll=35.71589,139.807549&amp;spn=0.016725,0.027466&amp;z=15&amp;iwloc=000448a4222f1402d07ce&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small></p>
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		<title>戦災殉難慰霊観音像（弥勒寺）</title>
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		<comments>http://airraiddiaries.com/?p=121#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 04 Apr 2008 15:50:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>ueno</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[場所・慰霊碑・戦跡]]></category>

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		<description><![CDATA[墨田区立川にある弥勒寺は、杉山検校の墓と川上薬師で知られる古刹。［墨田区戦跡マップ（墨田平和委員会）］

門を入ってすぐ左に、大きな観音立像（日展会員片岡静観の作）がある。その下には、3500体もの遺骨がおさめられているという。


墓誌には次のようにある。
　昭和二十年三月九日夜間大空襲により本所深川は全滅廃墟となり死傷するもの亦多く劫火の中に血縁を求めて呼べども自らも倒れ死屍累々と山をなす　終戦と共に平和への悲願をこめて茲に観音像をつくり遺骨三千余体を安置し歳々年々供養の赤心を捧ぐ
　願わくば後人の争うことなく福祉の途を開かれんことを
　昭和四十二年三月十日
　弥勒寺住職　至道 識（しるす）

菊川、立川、千歳の七町会で聖観音会を組織し、1967年（昭和42年）3月10日に建立、犠牲者の遺骨粉が塗り込められているとのこと。
その会はもう解散してしまったが、寺が中心になって追善供養を毎年行っている。住職が資料を作り、「あの晩死んでいった人たちの声なき声をきくように」「若者たちに戦災体験を伝えなければならない」と訴えている。［墨田区戦跡マップ（墨田平和委員会）］
大きな地図で見る
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>墨田区立川にある弥勒寺は、杉山検校の墓と川上薬師で知られる古刹。［墨田区戦跡マップ（墨田平和委員会）］</p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/dsc01419.jpg" alt="" title="戦災殉難慰霊観音像（弥勒寺）" width="400" height="300" class="alignnone size-full wp-image-122" /></p>
<p>門を入ってすぐ左に、大きな観音立像（日展会員片岡静観の作）がある。その下には、3500体もの遺骨がおさめられているという。</p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/dsc01421.jpg" alt="" title="戦災殉難慰霊観音像（弥勒寺）" width="400" height="300" class="alignnone size-full wp-image-123" /></p>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/dsc01436.jpg" alt="" title="戦災殉難慰霊観音像（弥勒寺）" width="300" height="400" class="alignnone size-full wp-image-125" /></p>
<p>墓誌には次のようにある。</p>
<blockquote><p>　昭和二十年三月九日夜間大空襲により本所深川は全滅廃墟となり死傷するもの亦多く劫火の中に血縁を求めて呼べども自らも倒れ死屍累々と山をなす　終戦と共に平和への悲願をこめて茲に観音像をつくり遺骨三千余体を安置し歳々年々供養の赤心を捧ぐ<br />
　願わくば後人の争うことなく福祉の途を開かれんことを<br />
　昭和四十二年三月十日<br />
　弥勒寺住職　至道 識（しるす）</p></blockquote>
<p><img src="http://airraiddiaries.com/wordpress/wp-content/uploads/dsc01424.jpg" alt="" title="戦災殉難慰霊観音像（弥勒寺）" width="300" height="400" class="alignnone size-full wp-image-124" /></p>
<p>菊川、立川、千歳の七町会で聖観音会を組織し、1967年（昭和42年）3月10日に建立、犠牲者の遺骨粉が塗り込められているとのこと。</p>
<p>その会はもう解散してしまったが、寺が中心になって追善供養を毎年行っている。住職が資料を作り、「あの晩死んでいった人たちの声なき声をきくように」「若者たちに戦災体験を伝えなければならない」と訴えている。［墨田区戦跡マップ（墨田平和委員会）］</p>
<p><iframe width="100%" height="480" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;s=AARTsJqvZGNFNZGdGyGSGL_AJ9T93h9eYA&amp;msa=0&amp;msid=109622826284638235710.0004481847d01dde74be2&amp;ll=35.697595,139.800167&amp;spn=0.016729,0.027466&amp;z=15&amp;iwloc=00044a0dff50dacca1841&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.com/maps/ms?ie=UTF8&amp;hl=ja&amp;msa=0&amp;msid=109622826284638235710.0004481847d01dde74be2&amp;ll=35.697595,139.800167&amp;spn=0.016729,0.027466&amp;z=15&amp;iwloc=00044a0dff50dacca1841&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small></p>
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