精工舎

May 28th, 2005

マップ

1892年(明治25年)、服部金太郎によって設立(創業は1881年)された精工舎(現在のセイコー株式会社)は、当初本所石原町にあったが、翌年太平町に移転した。[はばたき 墨田産業年譜(墨田区)]


明治35年頃の精工舎工場正門
[はばたき 墨田産業年譜(墨田区)]

その後、鐘淵紡績(カネボウ)や花王石鹸などと並んで、向島・本所区の工業地帯を代表する工場のひとつとなった。関東大震災で焼失したものの、1930年頃までに巨大な工場が再建された。1977年頃まで稼働していたが、その後は工場機能を停止して事務棟を時計資料館として公開し、それも1997年頃には閉鎖された。風格のあるデザインの建物は、長い間錦糸町の名物として人々に親しまれた。


2002年頃まであった精工舎の建物(四ツ目通り側)
http://www.b-t-t.jp/history/index.html

この精工舎が、3月10日の攻撃目標のひとつとして挙げられていたという話がある。

 爆撃区域は、1943年10月にイーウェルをはじめとする NDRC の専門家たちが AAF と協力して作成した『情報部焼夷弾レポート』のなかで「地域(ゾーン)1」と分類した地区にまさに相当していた。建物密集地で東西約3マイル、南北約4マイルのほぼ正方形で、対角線上に流れているのが隅田川であった。(中略)
 この地区にはワシントンの第20航空軍が選定した重要爆撃目標が六ヶ所もあり、なかでも重視していたのは「精工舎」だった。もともとは時計をつくる会社だが、戦時下となると砲弾の時限装置や精密軍需機械を製造していたからである。[東京大空襲 B29から見た三月十日の真実(E・バートレット・カー/大谷 勲 訳)]

今のところ、他の東京大空襲に関する資料で、精工舎が重要な爆撃ポイントとされていたという記述は目にしたことがないが、現在その場所のすぐ近くに住む者としては気になるところである。

3月10日の東京大空襲の特徴は、それまでの軍事施設に対する昼間高高度精密爆撃と違い、一般居住区域に対する夜間超低空無差別絨毯爆撃という戦術が初めて採用されたことだと言われている。これは定説であり事実だろうが、一方で、いくつかの軍事施設が重要爆撃目標と定められていたというのはどういうことだろうか。もしかすると、無差別爆撃の非人道性が避難された場合の釈明のために、アメリカ陸軍参謀によって事前に用意された正当化の論理なのかもしれない。

実際、精工舎が軍需工場であったことは、戦時中の地図を見れば分かる。錦糸公園の北側は空白になっており、存在が消されているからだ。そしてこの工場は、3月10日の空襲によって大きな被害を受けた。

 軍需産業の存在も深刻だった。砲弾の起爆装置を作っていた精工舎には、四千人の人々が働いていた。鉄筋コンクリートの工場や周囲に投下された M69 の火は工員たちが消し止めたが、近くの建物に火がついて激しく燃えた。その熱で主工場の針金入りガラスの窓が溶け、そこから侵入した火が工場をなめつくし、機械をまったく使用できないものにした。経営者の計算では、その被害率は三十五パーセントにも達したが、それでも戦争が終わるまでは規模を縮小してでも製造していかなければならなかった。[東京大空襲 B29から見た三月十日の真実(E・バートレット・カー/大谷 勲 訳)]


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