人間の血痕と脂肪がしみこんで地図みたいになっていた

April 18th, 2008

浅草区千束町一の一二三に一家六人で住んでいた菊島幸治さん(当時13歳)は、3月9日の夜、8時頃に布団に入った。夜間空襲の際にすぐに起きだせるよう、服を着たまま寝た。これは当時のほとんどの人がしていたことである。

10時半の警戒警報によって一度起きたが、二機のB29は南方洋上に遠ざかったという情報に、再び寝床に戻った。

やがて大空襲が始まった。

菊池さんの家も二階から燃えだしたため、家族は避難することにした。父親の判断で、隅田川の方へ逃げることになった。

考えてみると、これが最初の、しかも最大の失敗でしたね。東の隅田川方面ではなく、反対がわの西の入谷、根岸、上野をめざした人は、ほとんど助かったのです。(中略)浅草の地理にくわしいはずの父が、なぜ西へ自転車のハンドルを向けなかったのか、(中略)それがいまでも残念でならないのですよ。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

辺りはまだそれほど火がまわっていなかったが、B29が超低空で次々と焼夷弾を投下しているのが見えた。強烈な北風の中、一家は無言で走った。

途中、知人の家に寄ったが誰もおらず、そのまま隅田川に向かって行った。そして急流のようになってきた人波に呑まれ、押されるようにして、言問橋に辿り着いた。

言問橋の上は、欄干がへし曲がるのではないかと思うばかりの大群衆で溢れていた。皆それぞれ荷物を持っており、リヤカー、自転車なども多かった。川の両岸から、対岸に逃げようとする人々が殺到し、橋の上は身動きのとれない状態となった。

B29の爆音、対岸を走る消防車のサイレン、焔を吸い込むような熱い空。それに泣き叫ぶ子どもの声。いま思い出しても、身の毛のよだつような光景です。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

一家は人混みの中をなんとか橋の中ほどまで進んだ。そこまでくると、もはや橋を渡りおえても安全ではないことが分かったが、前後から押される圧力でどうすることもできない。

そうしているうちに、浅草方面からの火の粉が橋の上の人々の頭上に吹き荒れてきた。そしてあっというまに荷物に火がついた。火は荷物から荷物へと燃え移り、悲鳴とどよめきで橋上は騒然となった。

このままではすぐに橋全体が火に包まれる、もう一刻の猶予もない、と思った菊池さんは、「ぼく先にいく!」と言って一番下の妹の手をつかんで対岸に向かって走り出した。

二人は人混みをかきわけ、倒れている人をふんづけたり、荷物の上を乗り越えたりしながら、がむしゃらに突き進んだ。子どもだからできたことだろう。そしてなんとか橋を渡ることに成功した。

その後二人は火炎とどろく道を這うように進み、錦糸公園まで逃げ延びた。そしてなんとか朝を迎えることができた。

錦糸公園を後にし、黒焦げの死体が路上に散乱する中、再び家の方へ戻ることにした。

そして数時間前に家族四人と別れた言問橋まで来た時、息の根が止まった。

言問橋の、その凄絶さといったら、これはもうたとえようがありません。とにかく、見渡すかぎり山と積まれた焼死体橋なのですよ。ええ、黒焦げの死体だらけなのです。架線が空中に渦をまいてまして、そこにも片手ひっかけてぶらさがっている死体があるのですよ。(中略)足もとの橋の上に、人間の血痕と脂肪がしみこんで地図みたいになっていたのを、いまも忘れることができません。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

あふれる遺体の隙間をぬうように橋を渡った菊島さんは、千束の自宅まで戻ったが、家は焼け落ちていた。そして泣き出す八歳の妹をなだめながら、近くの金竜小学校で家族が帰ってくるのを待った。

しかしいつまで待っても、残りの家族が帰ってくることはなかった。


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