背中の子どもをおろして抱きかかえたときのさけびといったら

April 1st, 2008

深川区洲崎弁天町一の一七(現在の江東区東陽一丁目付近)で洋服店を営んでいた梶山森二郎さん(当時37歳)は、3月8日、疎開先の千葉県から戻ってきた妻のつるさん(当時23歳)と一歳になった息子に再会した。

次の日、9日の夕方、激しい北風に森二郎さんは変な予感がした。赤ん坊もいやに泣いていた。つるさんが赤ん坊と添い寝をしてひと眠りしたころ、ドカドカと空襲がはじまった。

森二郎さんは急いでつるさんを起こし、外に出た。その時、赤ん坊を背負ったつるさんが、「あんた、もしかすると、これがさいごになるかもしらんね」と言った。「ばか!」と一喝し、三人は汐浜川(現在は汐浜運河と呼ばれているよう)の土手の防空壕に向かって走った。

川沿いの防空壕は、堤防の側面にもたれかかるような形になっており、20人ぐらい入れるものだった。トタンの扉がついていたが、中に入ると、隙間から火の粉がびゅうびゅうと吹き込んできてどうにもならない。外では火事嵐がおきてものすごい旋風を巻き起こしていた。やがて豪の中にも火がつきはじめたので、荷物を捨てて再び外へ出た。汐浜川の土手沿いに走りながら、住み慣れた町が今や溶鉱炉となり、雪崩のように崩れ落ちていくのを見た。

汐浜川と洲崎川(現在は埋め立てられて洲崎川緑道公園となっている)を結ぶ小さな運河に突き当たった。もはや水の中に飛び込むしかない。するとそこに、底の浅い伝馬船が流れてきたので、三人はそれに飛び乗った。

はじめ、堤防にはさまれた水の上は安全だろう思われたが、次々と降り注ぐ焼夷弾によって対岸には火柱が立ち上り、火焔が水面をすくうようにごーっとなめてきた。

森二郎さんは鉄カブトで水をすくってはつるさんにかけ続けた。襲い来る炎を必死で払い続けた。やがて舟にも火がつき、燃え崩れ、同乗していた何人かの人は火と煙にまかれて水の中に落ちていった。

いよいよ船底を残すだけになっても、森二郎さんはあきらめずに、つるさんに水をかけつづけた。その時、はっと気づいてつるさんの背中のねんねこをめくると、赤ん坊はもう息絶えていた。防空頭巾をすっぽりとかぶせ、その上からねんねこをかぶせ、そこに水をかけつづけたために、窒息したのだった。しかしすでに虫の息となっているつるさんには、そのことを告げることができなかった。

そうこうしているうちに、ついに辺の家々はすべて燃え尽きていった。どす黒い煙が水面に流れ、はしけのまわりには何重にも死体が浮いていた。

森二郎さんはつるさんを支えて岸に這い上がった。

女房がやれやれといった顔で、背中の子どもをおろして抱きかかえたときのさけびといったら、こればかりは、一生忘れることはできません。全身の火傷と、冷えと、ショックとがかさなって、一度半狂乱になった女房は、たちまち気力をなくし、ぼけっとした、なんていうか、とりとめのない表情に変わっていって、死んだ勝男を抱いたまま、地にうずくまっちまいました。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

炎の夜をなんとか生き延びたふたりだったが、つるさんはショックと疲労で、その日のうちに眠るように息をひきとった


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