なんといっても、すごかったのは、講堂です

April 3rd, 2008

武者みよさんの義弟の武者佐和さん(当時44歳)は、みよさんの夫の経営する電気製作所で働いていた。工場は竪川(現在の立川)四の二にあった。9日の午後、産気づいたみよさんを相生病院まで送った佐和さんは、その夜、空襲がはじまると、妻と子ども3人、そしてみよさんの子ども12人を、工場の前の防空壕に連れて行った。

その後、佐和さんは、大切な工具類を取りに工場に行ったが、工場の裏手から火焔が吹き込んできたので、あきらめて壕へひきかえそうとした。すると、外は火と煙だらけになっており、妻や子ども達がいるはずの防空壕からは、青白い火柱が空高く吹き上がっていた。まるで火焔放射器のような直線の炎だった。

あまりの火勢に壕には近寄ることができなかったが、きっと家族は逃げたに違いないと考え、佐和さんは竪川に向かった。

三之橋のそばにある水道局ポンプ所にたどり着くと、かろうじて手の届くところに窓があったので、それを割って建物の中に入った。その建物は鉄筋の防火建築だったため、佐和さんはなんとか炎を避けることができた。


現在もある三之橋ポンプ所

朝になって二階の窓から外を見ると、一望の瓦礫の山。何もかもが燃え朽ちて焦土となり、もうもうと赤茶けた煙が地平線まで淀んでいた。

ポンプ所を出ると、佐和さんは工場前の防空壕に戻ってみた。しかし壕は残骸の下敷きになって埋没していた。少し掘り返してみたが何も出てこない。その時、はっと思い当たった。隣組の避難場所だった菊川小学校に、皆で逃げ込んだのではないか。佐和さんはすぐに菊川小学校に行ってみた。


菊川小学校

ところが菊川小学校についてみると、そこは地獄絵図だった。門から一歩入ると、死体の山だった。黒焦げの死体や窒息死したと思われる今にも動き出しそうな死体が散乱し、足の踏み場もなかった。

しかし、なんといっても、すごかったのは、講堂です。(中略)講堂には、何層もの死体が、あの高い天井にとどかんばかりにぐわんと盛り上がって、目を歯をむきだし、おそろしい臭気を放って、まだブスブスと燃えてるじゃありませんか。それはもう、なんともいいようのないものすごさでした。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

火に追われた人々が講堂の中に殺到し、最初の人間は奥の壁へ押し付けられて踏みつぶされ、さらに次々と人がなだれ込んだ結果、そのような死体の山になったのだと思われた。

結局、妻と子どもたちの消息は分からなかった。

そういえばと思い、佐和さんは相生病院に行ってみた。病院は焼け落ちていたが、そこに伝言板があり、「院長、看護婦、患者ともに全員無事、両国アパートに待つ」と書かれていたのだった。


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  1. わるたわん

    私は竪川4丁目の住人です。昭和30年生まれですが、私の小学生の昭和40年頃まで菊川小学校には空襲で焼けたままの教室が残されていました。私の祖母や叔父はあの夜の炎の中から帰ってきませんでした。
    私が生まれた時、父はなくなった叔父の一字を使って私の名前としました。それを聞いてから私は平和な時代を精一杯に生きるのが私の務めと考えております。

  2. ueno

    わるたわんさん。戦後20年も、焼けたままの教室が残されていたとは驚きました。
    貴重なお話をありがとうございました。

  3. 西沢俊次

     東京空襲の痕跡の一つに、浅草寺の境内にある銀杏木があります。この銀杏木は幹が中空になっていて、その中空が焼けて黒い炭になっているのが見えます。 いまこの痛ましくもけな気な大木を、誰も気づかず近寄りもしません。他にも空襲の焼け跡を示す何本かの銀杏木があります。
     浅草寺としても、戦後60年以上を経ている貴重な空襲の痕跡を保存する価値があると思います。 囲いを作って看板を立て、この寺に訪れる一般の人たちに知ってもらう必要があります。

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