体験談について

June 10th, 2005

東京大空襲は、日本の首都東京を襲った大規模な災害、特に、広域火災による人的被害と都市の崩壊という点から、関東大震災と比較されたり、並列に語られることが多い。このことについて空襲の被害者は、自然災害と戦災という性質の違いから大きな違和感を覚えるという。

一方、太平洋戦争における、近代的な航空兵器を用いた一般市民の大量殺戮という点から、東京大空襲は広島と長崎の原爆被害と比較されることも多い。両者は投下された爆弾の性質こそ異なるが、どちらもアメリカ陸軍航空軍(Army Air Forces; AAF)の対日戦略の一環として行われたものであり[アメリカの日本空襲にモラルはあったか(ロナルド・シェイファー/深田 民生 訳)]、その破壊力が十分に発揮された(作戦が成功した)こと、そして犠牲者達の想像を絶する苦痛と、市街地への無差別爆撃というモラル上の議論を生んだ点で共通している。

現在、東京大空襲や原爆の被害状況を知るには、兵器の性能に関する資料や、死傷者数、焼失倒壊家屋数、罹災者数などの情報を集めることも有効だが、その前に、犠牲者の受けた苦痛を想い、亡くなった人達を追悼するために、生き残った体験者の言葉に耳を傾ける必要があるだろう。

幸い、東京空襲や原爆の体験者の内、少なくない方々が体験談を書いている。自治体や民間の平和推進団体などの呼びかけに応えて書かれたものもあれば、自発的に新聞社などに寄稿されたものもあるだろう。東京大空襲の記録は驚くほど少ないと言われるが、それでも、これまでに出版された書籍、雑誌、新聞、あるいは資料館での展示物などを総合すると、恐らく数百人の体験談を集めることができる。それらは3月10日未明の人々の行動記録であり、深い悲しみの告白である。

被害者の多くは、自分の体験したことのあまりの悲惨さから、それを人に語ることができない。語ることは追体験することであり、それは本能的に拒絶されることだろう。だから体験談というものは、ほとんどすべて、一部の強靱な精神力を持った心ある体験者による道義的な努力の成果なのだ。もちろんその努力は、「二度と同じことが繰り返されないように」という願いによって為されている。

ところで、様々な体験談を読んでいると、東京大空襲の体験談の内容と原爆の体験談の内容には、それぞれの展開に傾向があることが分かる。同じ状況を体験した人達の間で類似した物語が見られるのは当然かもしれないが、東京大空襲の体験談と原爆の体験談とでは、体験談としての構成方法に違いがある。要は、体験された事柄の時間的分布と被爆課程の関係が異なるのだ。

原爆の場合、爆弾が炸裂すると、放射線、熱線、衝撃波といったものが瞬間的に広がり、その地域は短時間で壊滅してしまう。爆心地近くにいた人々には、逃げるという行動の選択肢はほとんどなかった。その瞬間にどこにいたのかということが、傷害の質を決定する。だから原爆の体験談では、被爆の瞬間とその前後に関する話と、被爆後の混乱の描写、そして怪我の治療や闘病の苦しさで構成されることが多いように思う。強烈な熱戦によって木造家屋や樹木が自然発火し、大きな火災となって被爆した人々に襲いかかったが、やはり被爆体験の本質は基本的に爆発の瞬間に象徴される。

東京大空襲の場合、爆撃は数時間に渡って連続的に行われたのであり、人々は降り注ぐ焼夷弾の中、夜の街を逃げまどった。ある者は防空壕に避難し、ある者は人の波に追われて大通りを走った。ある者は川に飛び込み、ある者は学校に向かった。風上に逃げた人や風下に逃げた人、西に逃げた人や東に逃げた人など、体験談は、焼夷弾によって広がった業火からなんとか逃れようとする人々の逃避行を描写している。その数時間に、人々は家族とはぐれ、背中の子供を死なせ、火傷を負い、視力を失い、泣き叫び、放心し、果敢に消火を試み、けが人を助けたり、または見捨てたりした。朝が来てすべてのものが燃え尽きた時、ある者は生きていたし、ある者は死んでいた。

つまり東京大空襲の体験談には、生死を分けた行動の内容が含まれていることが多いのである。数秒後に自分は死ぬかもしれないという恐怖の時間を、数百万の人々が同時に過ごした。逃げるという行動の選択肢はあったが、四方を猛烈な火炎に囲まれた状況で、どこへ逃げればより安全なのかという判断の手がかりはほとんどなかった。いろいろな人の体験談を読んでも、行動パターンと生存条件を対応づけるような短絡的な回答は得られない。どのような行動が生死を分けたのかについて、偶然性以外の要因を探すのは非常に困難である。それでも爆撃継続時間における、助かるまでの、あるいは絶命するまでの行動が物語として記述されていることで、読者の興味は自然に一人称的になるだろう。被災者の視点でその数時間を追体験することへの好奇心を抑えることは、実際のところ、非常に困難なのである。

体験者にとって、生涯最も記憶に残ることとなる肉体的精神的苦痛のピークは、午前0時過ぎの爆撃開始から朝6時頃の鎮火までの数時間に連続的にもたらされた。自分や肉親の生存の可能性が刻一刻とゼロに近づいていく間のショックと疲労は、深刻な外傷を受けていない者にとっても、その命を奪うほどであった。

 ようやく火がおさまり、地上へ這い上がったが、こんどは、子どもの死を発見した妻が、ショックと疲労とで、みるみる生気を失った。その妻をはげましながら、梶山さんは、ただひたすらに救護所へと急ぐ。(中略)

 リヤカーを引き、なんの声もないので、ふりかえってみると、女房は子どもを抱いたまま、眠っておる。
 その寝息がきこえるので、ほっとして、ただ救護所の一念に押されていったようなものだが、やっとのこと洲崎警察へたどりついてみると、それらしいものはとんとありゃしません。(中略)
 わしはあわてて、こりゃ一体どうしたらいいかと思いましてな、とにかく女房をゆすぶり起こそうとしたのですが、女房は、もう息をしとりません。死んだ子どもを抱いて、死んでました。
 紫に花もようのセルの防空服を着て、胸に名札をつけ、自分の防空頭巾を四角くたたんで勝坊の頭にあてがいましてな、子どもを抱きしめたまんま…死んでましたよ。女房、子どもとも、実にきれいな死顔でした。死んだとたんに、今生の苦しみが、顔から消えていったのでしょうな。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

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