ああ、これで、私ら焼き殺されるんだ

April 1st, 2008

深川区森下町二の二一に住んでいた石橋静江さん(当時19歳)の家は八人家族だった。3月9日、通っていた日本橋高女の夜学の帰り道、総武線両国駅から家に向かう夜道で、静江さんは警戒警報のサイレンを聞いた。

急いで走って家に帰ると、しばらくして避難命令が出た。はじめ防空壕に入ったが、あたりがひどくなってきたため、家族は五間堀公園に逃げることにした。静江さんと父を残してまず他の5人が防空壕を飛び出していった。震災でこりていたので、皆手ぶらで行ったという。

五間堀公園
今もある五間堀公園

静江さんはその間に、二階の自分の部屋に荷物を取りに行った。その時、ばしゃっ、と音がして、黄燐焼夷弾が天井を突き破って布団の上に落ちてきた。そして激しく火花を散らしながら火を噴きはじめた。静江さんはそれを、そばにあった布団をかぶせてなんとか消し止めた。

階下に降りると、位牌を忘れたと言って母が戻ってきたところだった。位牌は自分が持っていくからと母を再び先に行かせた。その時、玄関先にも焼夷弾が一発落ちてきた。それを父が消し止めているうちに、静江さんは「先いくわ」と夢中で路地を出た。

近所の大正湯のそばまで来ると、道のまんなかにものすごい火のかたまりがあり、10人ぐらいの人と荷物が山になって、めらめらと燃えていた。火の玉が血のかたまりのように次々と空中にはじけとんだ。その火の中に、妹を見たような気がした。

大正湯
今もある大正湯

 あとで考えると、それが、やっぱり母たち、妹たちだったような気がしてならないのね。なぜって、母は私より一足先に家を出、妹たちは、路地のまがり角で母を待っていたと思うの。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

静江さんは、火の中を必死でくぐりぬけた。防空頭巾はとっくに燃えてなくなっていた。中和小学校の前の通りに出ると、そこに防空壕があった。中には、老人と三歳ぐらいの子どもが心ぼそそうにちぢこまっていた。しかしそこにも火の粉が迫ってきたため静江さんは外に出たが、どこをどう歩いたのか、炎と煙の中、道ばたで気を失ってしまった。

顔にさあーっとつめたいものがふれるので、静江さんは目を覚ました。においでガソリンだと分かった。B29がガソリンをまいていると思った。必死で起き上がろうとしたが、身動きがとれない。体の上に黒焦げの棒のような死体が折り重なっていているのだった。恐らく、転んで倒れた静江さんに後から来た人たちがつまづいて転び、そこに火がついたのだろう。静江さんも顔にひどい火傷を負ったが、死体の下にいたのでどうにか助かったのだった。

ああ、これで、私ら焼き殺されるんだ。死ぬのかな、って思いました。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

けれども静江さんは、死んでなるもんかと思いなおした。

なんとか死体の山から抜け出し、さっきの防空壕に行ってみると、老人は両手を下にしてカエルのようにうつぶせて焼け死んでいた。そしてその脇腹から、黒焦げの小さな頭がのぞいていた。辺にはガソリンのにおいが充満していた。

家族で助かったのは静江さんと父の二人だけだった。

3月10日の空襲時、B29がガソリンまいたり、逃げる人々を機銃掃射したという証言がいくつかあるが、米軍はこれを否定している。


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  1. 水戸和子(旧姓田島)

    はじめまして、

    生みの母親の名前を検索していてこのサイトに出会いました
    母は大正13年8月19日生まれなので年齢的にも一致するような気がしました
    日舞を教えていたらしいのです
    もし、連絡ができるのなら教えて頂けますでしょうか
    どうぞよろしくお願いいたします

  2. 水戸加寿子

    以前にも書き込みをしました 水戸加寿子です
    何か情報がありましたら お願いします
    現在サンフランシスコに住んでいまして思うように情報が入りません
    よろしくお願いします

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