石川 光陽

June 16th, 2005

石川光陽(本名:武雄)氏は、東京空襲を撮影した唯一のカメラマンとして知られる。現在手に入る様々な空襲関連資料の中で、戦時中に撮影された数々の東京空襲の被害状況写真の内、アメリカ軍による航空写真を除けば、恐らくその9割以上は石川氏が撮影したものである。1942年(昭和17年)8月18日のドゥリトル隊による東京初空襲以降、1945年(昭和20年)5月25日の山の手地区空襲までの間に石川氏によって撮影された被災現場の写真は、そのまま東京空襲の有様を地上から逐次フィルムに焼き付けた唯一のそして完全な記録と言える。


戦時中石川氏が作成していた『帝都空襲誌』
[東京大空襲の全記録(石川光陽 森田写真事務所編)]

石川氏以外による写真がほとんど存在しないのは、一般に、戦災現場の撮影が禁止されていたからである。戦時中は、空襲被害の状況を敵国はもちろん国民の目からも隠匿するために、空襲現場の写真撮影や被害現場への立ち入りは禁じられていた。1943年(昭和18年)5月7日に内務省警保局から各庁府県に出された取締標準には、次のようにある。

空襲及其ノ被害状況ノ撮影

  1. 外国人ノ撮影ハ之ヲ阻止スルコト
  2. 邦人撮影ノ場合モ其ノ用途明ニシテ防諜上支障ナク且ツ特ニ必要アリト認ムルモノノ外阻止スルコト
  3. 家屋其ノ他建造物ノ被害復旧状況ノ撮影ニ就き右各号ニ同ジ

[東京が戦場になった日(中澤 昭)]

石川氏が空襲現場を撮影できたのは、氏が警視庁のカメラマンだったからである。氏は戦前から事件現場や風俗写真を職務で撮影していたが、1944年(昭和19年)11月24日、B29による初めての東京空襲(中島飛行機製作工場)があった日、被災状況の撮影から帰ると、原警務課長から呼び出され、空襲写真専務になるように命じられる。

「この『関東大震災誌』は君もよく知っているだろうが、今見ると記事はよく纏まり立派な記録であるが、写真はみるとおり少しも迫真力がない。これでは折角のグラフが死んでしまっている。それは地震のあった日から3日も4日も経ってから撮っているから、そこに写真から受ける生々しさ、本当の切実感が感じられないと思う。だからわしは君に爆弾、焼夷弾が落ちたと知ったら速やかに現場に飛んで、迫真力のある写真を撮ってもらいたいのだ。勿論危険の伴うことは判っている。死ぬことは覚悟せねばならない。死ねば立派な殉職だ。君の生命は総監のわしがもらう、いいね」
「ハイ、覚悟は出来ております」
[東京大空襲の全記録(石川光陽 森田写真事務所編)]

その後石川氏は、愛機のライカを片手に、日々本格化する空襲の現場を飛び回り、未だくすぶる焼け跡、崩壊した家屋、無惨な遺体を撮影し続けた。当然、自身も何度も危険な目に遭い、特に1945年(昭和20年)1月27日の銀座空襲や2月25日の神田付近の空襲では、燃え盛る業火の中、降りかかる火の粉で火傷を負いながらも決死の撮影を慣行した。


2月25日の神田付近。焼夷弾によって炎上する家屋の写真は貴重な記録と言える。
[東京大空襲の全記録(石川光陽 森田写真事務所編)]

しかし3月10日未明の空襲は、それまでのものとは全く異なる事態であった。その夜、警視庁の屋上から下町方面の大火災を見た石川氏は、すぐに自らの使命に殉じる決意を固めた。

 敵機の巧妙な戦略にうまうまとひっかかり、熾烈な大攻撃をうけている凄まじい情景を望見して、怒りと敵愾心と闘志がそして憤激の血がむらむらと音をたてて逆流するを覚え、私はこれから急いで火焔地獄の釜の底へ勇躍飛び込んでいき敵機の残虐なる悪魔の所業をカメラに収めてその証とし、与えられた使命に殉じようと決心して原文兵衛警務課長の許に行き、江東地区の被爆現場へ直ちに急行する旨を告げた。原課長はいつにない厳しい表情で立ち上がって私の手をしっかり握られ「行くか、今夜の空襲は今までの空襲の観念や方法と違った猛烈さを極めていて、現場は想像以上のものがある。充分気をつけてな、決して死ぬなよ。必ず元気で帰ってきてくれよ。」
[痛恨の昭和(石川光陽)]

警視庁を出て老朽車シボレーで昭和通りを飛ばし、浅草橋の交差点まで来ると、右往左往する群衆で身動きがとれなくなった。前方の、両国橋の向こう(本所側)は猛烈な火災となっており、空には B29 が唸りをあげて飛び交い、焼夷弾を雨のようにばらまいていた。

車を降りて、恐怖と混乱の中で逃げ惑う人々をかき分けてなんとか両国警察署(現在の、本所警察署)に辿り着くが、その周辺は既に猛火の壁に囲まれており、建物は今にも焔の中に没してしまいそうだった。署長室に入ると、高乗釈得署長は椅子に厳然と腰掛けていた。すでに留置人の避難や書類の運び出しは終わっており、これから脱出するところだと言う。「君も一緒に出ないか」という署長の顔には無念の色がうかがわれ悲壮な決意が表れていた。石川氏は、「いや私は最後まで生き抜いて1枚でも、2枚でもこの残虐なる衝撃的な敵の暴状をカメラに収めるつもりです。署長お互いに生きていたらまた逢いましょう」と告げて、ひとり再び劫火が渦巻く焼煙と火の粉の嵐の中へと出た[痛恨の昭和(石川光陽)]。

しかし燃え盛る炎は街全体を包み込み、火事場の突風はすべてのものを火の海に引きずり込む。人々は退路を断たれ、少しでも火熱の少ないところへ向かって這い進むことしかできない。たけり狂った暴風は、焼けた看板、雨戸、畳、荷車、トタン板を吹き上げ、凶器となって群衆に襲いかかる。低空で縦横に飛翔する B29 のジェラルミンの巨大な胴体に真紅の焔が下から照り映えて真っ赤に光る。そこから悪魔の口のような弾倉の扉が開き、これでもかと焼夷弾の束を猛火の中に叩き込んでいく。当然、写真撮影どころではなく、今この瞬間をどう生きるかが唯一の深刻な課題となった。

私は、どっちの方向にどのくらい来たのか判らないが、容赦なくかぶさってくる高度の火熱の中を這い回っていたが大火焔の下は真空状態となっていて窒息しそうで気が遠くなりそうだ。(中略)

いつ焼き殺されるかを身辺に意識しながら生きていることはやりきれないことだ。私はどうせ死ぬのならとカメラを腹のしたにしてうつ伏せとなり、現在装填してあるフィルムの1コマ1コマに生命をかけた写し済みの貴重な死を賭してのフィルムを焼かないようにして、私の死体をみた誰かがきっと現像して後世に残してくれるであろうことを密かに念じていた。(中略)

私の目の前では多くの人々が煙に巻かれ、火だるまになって声もなく倒れていくのが焔の隙間に散見される。それを助けにいきたくても出て行くことが出来ない。倒れた人の体は強風に吹きたたかれ激流の如く流れる大火流に乗って火をふきながら芋俵を転がすように急速に押し流されていった。(中略)

逃げ惑う多くの人びとはこの世の声とも思われぬ絶叫をあとに残して焼き殺され死体は宙に舞い上がった。そして燃えたぎっている焔の中に叩き付けられるように落ちていった。それはもう燃えているというようなそんな生やさしいものではなく、焔の川の奔流は大きな火のローラーで全てのものを押し潰し焼きとろかせていった。
[痛恨の昭和(石川光陽)]

やがて焼夷弾を投下し終えた B29 は姿を消した。猛烈な火災は明け方まだ続いたが、街のすべてを燃やし尽くしてしまうと、徐々に鎮火に向かい始めた。

恐怖と悲惨のながかった夜がようやく明けはじめてきたのだ。私は生きていたのだなと思うとなぜか痛む眼から涙が滲み出てきた。[痛恨の昭和(石川光陽)]

周囲にも何人かの人が生きていた。(中略)その人たちの顔は真っ黒にくすぶり、眉毛や頭髪は焼け、煙と灰塵で目がただれたようになっている。衣服はボロボロになって焼け焦げだらけ、手首はやけどで赤く腫れ上がっていて痛々しい。そういう私も同じ状態で、まだ燃え盛る道路に出た。[東京大空襲の全記録(石川光陽 森田写真事務所編)]

街は完全なる焦土と化していた。アスファルトは溶け、六角形の焼夷弾の筒がゴロゴロ転がっていた。都電の架線は蜘蛛の巣のように焼けて地上に垂れ下がり、電柱や街路樹は燃え尽きていた。そして無惨にも焼死した人々の遺体が道端に散乱し、その中を、生き残った人々が呆然と自失し、あるいは肉親の亡骸を探してさまよっていた。

あたりはまさに累々という言葉通りそれこそ何百何千体という多くの人びとがあの恐ろしい焦熱地獄の中で悶え、苦しみ万斛の怨みをのんで亡くなっている。全く悲惨の一語につきる。この情景はその表現に苦しむ。[痛恨の昭和(石川光陽)]

焼けた消防自動車があり、その傍らに、水管を握ったまま殉職した警察官と消防官の焼死体があった。その壮絶な姿を撮影しようとカメラを取り出してファインダーを覗いたが、余燼はまだあたりを焦がし、濃煙も漂って薄暗く、ライカの F3.5 レンズと ASA 感度50のフィルムでは、開放にしても写せる状態ではなかった。

陽が昇り、破壊の凄まじさが明らかになってくる。石川氏は重い足をひきずりながら、菊川、森下、駒形、浅草などを歩いて回った。その道々で数えきれないほどの、男女の区別もつかない黒焦げの遺体、完全に焼けて白骨化した遺体、マネキン人形のような遺体、肉片になった遺体、蝋人形のようになった遺体、何人もが折り重なってひとかたまりの炭となったどろどろの遺体、川面に浮かぶ遺体、虫けらのように殺された人々の無惨な遺体を目撃した。そしてそれらを次々とフィルムに収めていった。

泥にまみれたライカを、ばんこくの怨みを呑んで死んでいった多くの死体に向けることは、眼に見えない霊から「こんなみじめな姿をとるな」と叱責されるような気がして、その手はふるえ、シャッターを押す手はにぶった。[東京大空襲の全記録(石川光陽 森田写真事務所編)]

この3月10日に撮影された写真は、現在分かっているもので33枚。東京大空襲直後の非常に貴重な記録となった。本所の道端で炭化して泥のようになった遺体の山、黒焦げになって倒れたの母子の遺体、廃墟となった浅草をさまよう罹災者たち。これらの写真は、戦後、東京空襲を伝えるさまざまな資料で繰り返し使われることになる。

現在の感覚では、逆に、なぜ33枚しか撮影しなかったのか悔やまれる。恐らく、カメラマンである石川氏自身が極度の疲労感と身体的苦痛の中にあったこと、手持ちのフィルムに限りがあったこと、状況的に撮影が憚られる場面が多かったことなどが理由だろう。

無惨な遺体の写真や、見渡す限り瓦礫の山となった本所浅草地区の写真は、見るものに恐怖と悲哀の念を強烈に引き起こさせる。しかし私が最も衝撃を受けたのは、3月10日の33枚を含むフィルムロールのコンタクトシート(ベタ焼き)を見た時だった。


3月10日のコンタクトシート
[東京大空襲の全記録(石川光陽 森田写真事務所編)]

これは、作品として切り取られたシーンの断片ではない。このコンタクトシートには、想像を絶する炎の夜を生き延び、命からがら朝を迎え、ボロボロになって焼煙くすぶる遺体の街を無念の涙の中で歩いている、石川氏の一人称の視線そのものが写し出されており、目にした光景が時間軸にそってリアルタイムに再生されているのである。

石川氏の写真には、常に、事件現場の実際を客観的に記録しようとする警察官の視点と、事件の意味や文脈を情熱をもって人々に伝えようとするジャーナリストの視点が含まれている。100万人が罹災した史上空前の戦災において、このようなプロフェッショナルの視点で描写された記録が他にほとんどないのは不思議なほどであるが、それゆえに、石川氏の残した写真や日記は特別な意味を持っていると言える。

戦後、進駐軍の占領を前に、官公庁は軍事政策に関して記述された膨大な書類を焼却処分した。同時に、報道関連の資料やフィルムも処分されていったという。やがて GHQ は、東京空襲を撮影した唯一のカメラマンである石川氏の存在を探り出し、フィルムの提出を命令した。しかし石川氏は、自分が命をかけて撮影したフィルムを渡すまいと提出を拒否し、こっそり持ち帰って自宅の庭に埋めてしまった。石川氏の提出拒否と GHQ の板挟みにあった警視総監は、しかたなくフィルムを石川氏個人の所有として責任を回避した。繰り返しの提出命令にもかかわらず石川氏はそれを拒否し続けた。これは当時としてみれば命がけの行動であっただろう。ついに GHQ はフィルムをあきらめて、プリントしたものの提出でよいということになった。こうして、フィルムは没収されずに済んだのである。

なお、戦後バラバラになっていたネガフィルムを整理し、コンタクトシートの再現を行ったのは、森田写真事務所である。この献身的な作業と分析によって、戦時中に撮影された石川氏の写真の全貌が把握されるようになった。

石川氏は、1963年(昭和38年)まで警視庁のカメラマンとして活躍し、1989年(平成元年)に他界した。

  1. 空襲日記 | 本所警察署の慰霊碑

    […] 3月10日未明の空襲下の本所警察署(当時は両国警察署)の様子は、石川光陽氏の手記に描写されている。 […]

  2. 泉水 潤

    TBSのドキュメンタリードラマ番組を見てネットに来ました。
    ドラマでは東京大空襲を命じたアメリカ軍の指揮官はそのために
    出世し、日本政府からも勲章をもらったというオチまでついてい
    ました。こうして見るとナチスのヒットラーみたいな奴はどこに
    でもいるんだなと思いました。
    そしてやっぱり戦後の初めから日本政府は信用できないんだなと
    思いました。
    石川光陽の写真は戦後を生きてきた我々を我々の見えない死角
    から照射してくれる光線のようです。

  3. 成宮喜三郎

    3月10日に石川光陽氏が撮影した33枚の写真中、私が写っている写真は「べた焼き一番下の左端の写真」。当時私は8歳の誕生日。城東区亀戸から逃げ回って上野駅の近くで市電の駅名看板に抱きつくようにして光陽氏が撮影されたこの写真は、一番先頭を私が、その後ろ弟をおんぶした母、その影に兄がいて、続いてリヤカーを引いた数人がいます。リヤカーに積まれていたものは、煙がくすぶっている布団でした。丁度69年前の今日です。

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