東京都慰霊堂(横網町公園)- 1

June 2nd, 2005

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東京都慰霊堂は、両国駅から徒歩5分ほどの横網町公園内にある。東京大空襲の犠牲者を慰霊する場所としては最大の存在であり、ほとんど唯一の公的な施設だろう。ここには、太平洋戦争時に都内で亡くなった一般市民105,400人の遺骨が、無縁仏として安置されている。その内の九割以上が、3月10日の犠牲者である。

とはいえ、この慰霊堂は、東京大空襲あるいは戦災の犠牲者を弔うために作られたのではない。もとは1923年(大正12年)の関東大震災の犠牲者を供養するために、震災記念堂として1930年(昭和5年)に建てられたものだ[すみだハンディガイド(墨田区文化観光協会)]。

1922年(大正11年)、この場所にあった本所陸軍被服本廠(兵員の衣類等を備蓄する所)の移転に伴い、約67,400平方メートルの跡地は逓信省と東京市に払い下げられた。1923年(昭和12年)7月に、1週300メートルのトラックのある近代式運動公園や小学校の建設が始められたが、その直後、9月1日に関東大震災が起こった。

昼食の支度時だったこともあり、各地で火の手が上がり、東京中を包み込む大火災になった。地震発生から3時間後、行き場を失った被災者は火に追われるように空き地となっていた陸軍被服廠跡へと避難した。地元の相生(現在の両国)署の職員も、避難民を被服廠跡に誘導し、広場は足の踏み場もないほどの人であふれかえった[関東大震災(吉村 昭)]。

さらに1時間経った頃、強風と四方からの猛火により巨大な火災旋風が発生。この現象は極端に激しい火災によって起こるらしいが、これが被服本廠跡地を直撃した。敷地内は火の海となり、布団や風呂敷といった荷物は燃え盛り、人々は次々と火炎の竜巻に巻き上げられ、窒息、焼死した。この惨事による死者は約40,000人(資料によって38,000人から44,000人とされる)。敷地内に居合わせて生き残ったのはわずか200人にすぎなかった。関東大震災の死者は全体で約100,000人(行方不明者を合わせると140,000人)と言われているので、その内の約3分の1もしくは半数が被服廠跡地で亡くなったことになる[古地図・現代図で歩く 戦前 昭和東京散歩(人文社)]。

被服廠跡の惨劇については、体験談も含め、関東大震災関連の資料の多くで言及されており、凄惨な状況が描写されている。特に、誰が撮影したのか、惨事が起きる直前の群衆の写真と、惨事直後の折り重なるように敷地を埋め尽くす無数の遺体の写真が残されており、その強烈なコントラストは見る者の思考を停止させる。

1ヶ月後の10月には、市内各所で火葬した約58,000人の遺骨を安置するために、最も悲惨を極めたこの被服本廠跡に仮納骨堂が建設された。そして震災から7年後の1930年(昭和5年)の9月1日、正面に祭壇、地階に納骨堂がある鉄筋コンクリート構造の震災記念堂が完成し、あらためて納骨された[東京大空襲関連史跡(墨田区総務部総務課)]。

本堂の設計は、築地本願寺の設計などで知られる伊東忠太。

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1929年(昭和4年)建設中の震災記念堂
[写真集 墨田区の昭和史(墨田区の昭和史編纂委員会)]


1933年(昭和8年)頃の震災記念堂
[一九三三 大東京寫眞案内(博文館)]

震災後の帝都復興計画は、消失した地域の整備や、隅田川への新たな架橋(言問橋、駒形橋、蔵前橋など)、三大公園(錦糸公園、隅田公園、浜町公園)の造成、幹線道路の建設など多岐に渡った。

人々は「復興」を合い言葉に焼け跡の中から立ち上がり、不屈の努力で再び生活の場を築いた。

家は焼けても江戸っ子の 意気は消えない見ておくれ
アラマ オヤマ たちまち並んだバラックに
夜は寝ながら お月さま眺めて エーゾエーゾ
帝都復興 エーゾエーゾ
[復興節(作詞:添田 さつき) 演歌の明治大正史(添田 知道)]


1934年(昭和9年)9月1日、11周年目の震災記念日に参拝する人々
[古地図・現代図で歩く 戦前 昭和東京散歩(人文社)]

しかし、帝都東京が復興した時、わずか十数年後に更に深刻な破壊がこの街にもたらされることを、どれだけの人が予測できただろうか。しかもそれは天災ではなく、人為的に引き起こされた戦争であった。

痛恨の歴史は、公園内に立っている由来記に次のように記されている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記

 大正十二年九月一日、突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千余人の市民は、業火の犠牲となった。
 このうち最も惨禍をきわめたのは、当時横網町公園として工事中の陸軍被服廠跡であった。世論は、再びかかる惨禍のないことを祈念し、慰霊記念堂を建設することになり、官民協力して、広く浄財を募り、伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣工し、東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、また公共慰霊の道場として設計された。三重塔は高さ百三十五尺(約四十一メートル)、基部は納骨堂として五万八千余人の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名法等が祭られてある。
 以来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し、「備えよつねに」と、相戒めたのであったが、はからずも、昭和十九、二十年、東京は、空前の空襲により連日爆撃を受け数百万の家屋財宝は消失し、十万をこえる人々は、その犠牲となり大正震災に幾倍する惨状に再び見まわれた。
 戦禍の最もはげしかったのは同二十年三月十日であった。江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千余人を失った。当時殉難者は公園その他百三十カ所に仮埋葬されたが、同二十三年より逐次改葬火葬し、この堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春、戦災者整葬事業を完了したので、東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約6,000坪、慰霊堂の建坪は377坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園、及び大火にも耐え甦生したいちょうの木を称えた大並木が特に植えられている。

 東京都


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