このあたしだけ、病院に残してくださってもいいんです

March 23rd, 2008

空襲の夜にお産をした方の体験談がある。

竪川に住んでいた武者みよさん(当時42歳)は、3月9日の午後3時、陣痛のために緑町の相生病院に入院した。みよさんにはその時すでに12人の子どもがおり、その他に生まれてすぐに死んだ子どももいたので、みよさんにとっては14回目のお産だった。

現在の相生病院(相生産婦人科)
現在の相生病院(相生産婦人科)

夜、警戒警報のサイレンが鳴る中でお産がはじまった。分娩室のライトは、明かりが外にもれないように、黒布で何重にもおおわれた。空襲がはじまるのが先か、生まれるのが先か、という緊迫した状況だったが、ベテランの江口医師および山田婦長の努力もあって、午後11時7分に無事女の子が生まれた。

しかし一息つく暇もなく、1時間後、激しい焼夷弾の雨が町を燃やしはじめた。

相生病院の屋上から外の状況を見た山田婦長は、すぐに避難を決断した。みよさんは生まれたばかりの赤ん坊を抱きしめたままタンカに乗せられた。他の入院患者八名と看護婦を含めて、合計14名が炎の中の逃避行を開始した。

生まれたばかりの赤んぼうをかかえて、タンカにのせられましたが、そりゃ、なんともおそろしく、ただただ不安なものでしたよ。赤んぼうは、うぶ湯をつかわせてもらっただけで、まだなんの抵抗力もございませんもの。(中略)
「先生、このあたしだけ、病院に残してくださってもいいんです」
って、あまりの申しわけなさに、先生にいいましたら、
「患者を殺して、医者がいきられますか!」
と、江口先生は、怒ったような表情でそういい、「あんたは、赤んぼうと眠ってなさい」と、私の顔の上に、ふとんをすっぽりかぶせてしまいましたよ。
[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

一行は逃げ惑う群衆の中を進み、まずは両国日活館(当時、京葉道路と清澄通りの交差点付近にあったと思われる)に行き、そこで少しの間休んだものの、火焔が迫ったので両国駅まで移動した。看護婦がかわるがわる、みよさんのタンカを運んだ。

両国日活
緑町1丁目にあった両国日活。写真は昭和32年(1957年)頃。[写真集 墨田区の昭和史(墨田区の昭和史編纂委員会)]

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現在は銀行が立ち並ぶ。

両国駅(旧駅舎)
両国駅(旧駅舎)。この辺では、戦前から残る数少ない建物のひとつ。

両国駅に近づくと、八方より避難者殺到、雑踏をきわめ、身動きできぬありさまであった。しかし当時の人々は、みな江戸っ子気質があった。ことに当地は辰巳っ子の本場でもあった。白衣をまとうた担架隊を見ると、みな道を開け、すすんで世話してくれる篤志家もあり、無事待合室の一隅に陣取ることができた。
[江口医師の手記より - 東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

その後一行は、さらに移動して両国アパート(隅田川沿いにあったと思われる)の一部屋に避難して、朝を迎えた。みよさんと生まれたばかりの赤ん坊はなんとか無事だったが、家の近くの防空壕に避難したと思われる12人の子どもと夫とは、もう二度と会うことができなかった。


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  1. 空襲日記 | なんといっても、すごかったのは、講堂です

    [...] 武者みよさんの義弟の武者佐和さん(当時44歳)は、みよさんの夫の経営する電気製作所で働いていた。工場は竪川(現在の立川)四の二にあった。9日の午後、産気づいたみよさんを相生病院まで送った佐和さんは、その夜、空襲がはじまると、妻と子ども3人、そしてみよさんの子ども12人を、工場の前の防空壕に連れて行った。 [...]

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