さいごに自分の頭巾を私にかぶせてくれて

March 21st, 2008

3月10日未明。亀沢町に住んでいた橋本代志子さん(当時24歳)は、空襲がはじまると、幼い子ども、両親、そして三人の妹とともに、まずは家の前の防空壕に避難した。夫は警戒召集で柳島小学校に行ってしまって不在だった。午前1時前、「みんな、逃げるんだ。ここはもういかん。」という父親の声に、防空壕から烈風が吹きすさぶ外に出ると、頭上にはB29が乱舞し、北側の石原方面から大火災が迫ってきていた。

7人は南下して総武線のガード下に来た。高架線の両側は強制疎開で空き地になっていて、大きな水槽が作られていた。しばらく一家はそこにいたが、火の手が迫ってきたため、さらに南下して竪川を目指すことにした。しかし先を争い殺気立つ人の流れにもまれ、妹たちがはぐれてしまった。

三之橋の上に出ると、人でいっぱいとなり、もう前へは進めなくなった。橋の両側から火が迫っていた。そして大量の火の粉が橋の上にも降り注ぎ、人々の衣服を焼きはじめた。背中の赤子の口に火の粉が入り、狂ったように泣き出した。まつげは溶け、髪はちりちりと焦げだした。代志子さんは死を覚悟した。

火はすでに両岸の倉庫に燃え移り、巨大なバーナーの炎となって吹き付けていた。ひしめく人々の背に、肩に、髪の毛に張り付いた火の粉は「ボッ」と焔となり燃え上がった。人間が生きながら焼かれていくすさまじさを目前に、自分にも張り付き子どもの口にも飛び込む火の粉から懸命に身を守った。[三月十日、あの群衆は…(橋本代志子) – 江戸東京博物館 総合案内]

その時、父親が「代志子、川に飛び込め」と叫んだ。そして母親は、「代志子、おまえ、これを」と言って自分の防空頭巾を代志子さんにかぶせた。

長女だった私は、実はいつもその母にすねてばかりいたんです。母も、その私をけむたく見てか、あまり口をきかなかったのですけど、その母が、… さいごに自分の頭巾を …… 私にかぶせてくれて、(中略)炎の中にうつしだされたそのときの母の顔といったら、 …… いまも心に深くきざみこまれて、消えません。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

代志子さんは赤ん坊とともに冷たい竪川に飛び込むと、偶然流れてきたイカダにつかまった。三之橋を見上げると、大勢の人がひしめく中を炎が飛び交い、ものすごい燃焼音をあげていた。父母の姿はもう見当たらなかった。

三之橋
現在の三之橋

その後、母子は一艘の小舟に乗った人に引き上げられた。小舟は次の菊花橋の下をくぐった。菊花橋は全体が真っ赤に燃え盛っていて、火の輪になっている。橋の上からは人が川に飛び込み、水煙があがっていた。

菊花橋
現在の菊花橋

川の中では大勢がうめき声をあげていた。小さな女の子が漂ってきたが、よく見ると死んでいた。

やがて小舟は大横川との交差点まで来たが、川で溺れ死ぬ人も多い中、母子は奇跡的に命をとりとめ、朝を迎えた。

なんとか岸にあがると、ねんねこで赤ん坊を背負った母親が周りに何人もいた。皆、焔の中をなんとかくぐりぬけてきたのだったが、多くの場合、母親が知らぬうちに背中の子どもは死んでいた。母親たちは両手の自由を確保するために子どもをおんぶして逃げたが、舞い来る火の粉がねんねこを燃やし、川の水が赤子の体温を奪っても、それに気づくゆとりはなかったのである。

その後代志子さんは、疲労のため歩くこともできなかったが、通りすがりの人がリヤカーに乗せてくれて、同愛病院に運ばれた。

火と煙で痛んだ目にぼんやりと映った焼け跡には、至る所に焼死体が散らばっていた。枯木のような物、ミイラのような物、風船のような物、ボロ雑巾のような物、命を失った人間は物でしかなかった。三ツ目通りを必死で逃げたたくさんの人影はどこへ行ったのだろうか、焦げた衣服がぼろぼろ下がった何人かの人に出会っただけだった。[三月十日、あの群衆は…(橋本代志子) – 江戸東京博物館 総合案内]

三人の妹のうち二人は生きていたが、一人は帰らなかった。橋の上で分かれた父母も、結局それきりとなった。

ところで、多くの被災者は、戦後しばらくの間、辛すぎる自分の体験を語ることができなかった。橋本さんも同様に、戦後25年間、このような体験と戦後の苦悩について熱心に人に話すことはなかったという。しかし、作家の早乙女勝元氏にこの話をした結果、早乙女氏を大きく動機づけることになったようだ。

きいてしまったからには、このままではすまされぬ。私の決意は、いっそうたしかなものになって、やむにやまれぬ気持ちで「庶民の戦災史」を骨格とする「東京空襲を記録する会」の成立を、具体的に自分の中にかためることになった。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

そして戦後25年目にして、ようやく東京空襲の実態を後世につたえる運動がスタートしていくのである。その原動力のひとつとして、橋本さんの体験談が少なからず機能したのではないだろうか。

その後も橋本さんは様々な取材などで体験を語り、東京大空襲の惨禍を伝える語り部となっている。


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