体験談について2
March 17th, 2008井上ひさしの「父と暮せば」は、終戦から3年後の昭和23年(1948年)の広島を舞台にしている。その中で、図書館で働く主人公の三津江が、原爆関係の資料を探しに来た青年に、次のようなことを言う。
原爆資料の収集には占領軍の目が光っとってです。たとえ集めたとしても公表は禁止されとってです。それに一人の被爆者としては、あの八月を忘れよう忘れようと思うとります。(中略)それどころか資料が残っとるようなら処分してしまいたい思うぐらいです。うちも父の思い出になるようなもんはなんもかも焼き捨ててしまいました
たとえ歴史的な大惨事であっても、その直後というものは、いろいろな意味でそれを客観化して説明しようという動きは起こりにくいのだろう。それでも広島では、昭和24年(1949年)に広島市中央公民館に小さな「原爆参考資料陳列室」ができ、昭和30年(1955年)には平和記念館と平和記念資料館が開館した。
一方、東京大空襲については、占領軍が去ってしばらくしてからも、多くの人は口をつぐんだままだった。
作家の早乙女勝元氏は、新聞社やテレビ局の知人をたよって東京空襲を扱うように依頼したが、庶民の過去の悲劇は記事になりにくいのか、ほとんど取り上げられなかったという[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]。
また、評論家松浦総三氏の調査によれば、戦後二十二年間の朝日新聞は、三月十日について四回しか書かなかったという。そしてのその戦災資料は、関東大震災の十分の一、広島原爆の百分の一ぐらいしかないという[書かれざる東京空襲(松浦総三)]。
史上空前の大殺戮である東京大空襲が戦後ずっと社会問題化されなかった理由として、早乙女氏は次のように分析している。
- まず一家全滅の家族が多かったこと。語り部がいなければ告発もできない。
- 遺族や罹災者は住む場所を求めて地方へ離散していった。
- しかも多くの被災者は、戦後、生きるのに精一杯だった。
- 占領下では、進駐軍に対して不信もしくは怨恨を招集するような事柄は記事にできなかった。
- 社会的弱者置き去りの政治が、戦中から戦後へと引き継がれた。
1970年、早乙女氏の呼びかけをきっかけに、作家の有馬頼義氏や松浦氏ら民間有志によって「東京空襲を記録する会」が発足する。そして当時の美濃部亮吉都知事に陳情し、東京都の援助の下で「東京大空襲・戦災誌」の編纂に乗り出した。その内容としては、都民の立場にたつ資料集にするために被災者の声に多くのページを割くこととし、広く体験記を募集した。これはマスコミにも取り上げられ、やがて続々と記録原稿が集まってきた[東京大空襲60年 母の記録(森川寿美子・早乙女勝元)]。
このようにして、東京空襲に関しても多くの体験談が語られるようになっていった。
ところで、「東京空襲を記録する会」に寄せられた総枚数1万2000枚に及ぶ体験記について、早乙女氏は次のように言っている。
書き手の年齢は四十代がもっとも多く、その大半は女性である。(中略)あの日あの時、まだ十代だった娘たちが東京大空襲を告発する主力となり、空襲記録運動は、東京から全国の戦災諸都市へとまたたくまに波及したのである。[東京大空襲60年 母の記録(森川寿美子・早乙女勝元)]
確かに東京大空襲の体験談を読んでいると、(当時の)若い母親が書いたものが多いように思う。そこには、次のような類似した状況がくりかえし綴られている。
夜中、いつもとは違う外の喧噪に目をさます。時刻は0時すぎ。窓の外は昼間のように明るくなっていて、あちこちで火の手があがっているのが分かる。早く避難しなければと、まだ幼い乳飲み子を背負い、ねんねこを羽織り、防空頭巾をかぶる。夫は出征していないか、もしくは警防団などの仕事ででかけていていない。表に出るとすでに近くまで猛火がせまっているのか、逃げる人のうねりが通りを埋め尽くしている。若い母親は、なんとかして我が子を守ろうと、決死の覚悟で炎からの逃避行を開始する。突風が吹き荒れ、火の粉があちこちから舞って来て、防空頭巾を焦がしていく…
東京大空襲の体験記には、子を死なせたエピソードや、群衆の中で親とはぐれてそれきりとなったエピソードが多くある。いずれも被災者のその後の人生を大きく変えてしまう衝撃的な出来事だ。中でも、若い母親が必死に子どもの命を助けようとした話は数えきれないほど多く、そのひとつひとつが、銃後こそが最も危険な最前線であるという近代戦争の本質を鋭く描き出している。