東京大空襲訴訟原告団の呼びかけ

May 13th, 2007

錦糸町駅南口を通りかかった時、偶然、東京大空襲訴訟原告団の方々が街頭で支援の署名と募金の呼びかけをしているのに出会った。

「かつてこの錦糸町付近は大きな被害を受け、たくさんの人が殺されました。錦糸公園には、1万3千もの遺体が仮埋葬されたのです。」

行き交う人々の関心は低く、立ち止まって耳を傾ける人はほとんどいないように見受けられた。

以下に、配られていたチラシの内容を転載する。

〜空襲死者を追悼し、被災者の人権を守るために〜
東京大空襲訴訟へのご支援をお願いします!

 私たち112名の原告団は3月9日、国を被告として東京地方裁判所に集団訴訟しました。今から62年前の3月10日未明、米軍B29爆撃機の無差別爆撃により、本所、深川、浅草、城東などの東京の下町地域は完全に消失し、一夜にして10万人もの都民が殺され、100万人以上の人々が被災し住む家を失いました。1945年8月15日の敗戦の日までに首都東京は、100回を超す空襲にさらされました。
 戦後、政府は軍人・軍属に対しては恩給法や援護法によって現在も国家補償を続けていますが、私たち民間人被災者に対しては、戦後62年ものあいだ、何等の謝罪も補償もありません。私たちはこれら国家による不作為が法の下の平等を著しく侵すものとして国に対し謝罪と補償を求めて集団訴訟に立ち上がったのです。112名の原告の平均年齢は72歳。裁判所の判決が一日も早く出されることを願っています。皆さんのご理解と訴訟へのご支援を心からお願いいたします。

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東京大空襲訴訟原告団
〒131-0045 東京都墨田区押上 xxxxxxxxx
電話&FAX 03-3616-2338
郵便振替口座:00180-5-356000
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【東京大空襲とは?】
米軍B29爆撃機による東京大空襲では、3月10日午前零時7分からわずか2時間半の無差別爆撃で、10万人を超える生命が奪われ、被災者は100万人、焼失家屋は27万余戸に上る。通常兵器による空襲では世界史上他に例を見ず、のちの広島・長崎の原子爆弾にも匹敵するほどの大被害といえる。
 来襲したB29爆撃機は約300機。東京の深川、本所、浅草を中心とする下町の住宅密集地に超低空から1,700トンもの焼夷弾を集中投下し、東京の東部一帯は大下流に呑みこまれ、火の海の沸騰となった。劫火により風速20〜50メートルの烈風が吹き荒れ(火炎旋風)、ふいごの役割を果たして、下町地域全体を巨大な火の坩堝に変えた。火は空中に燃え上がるだけではなく、地上を水平に走っていく。避難民でごった返す道路では、頭髪や衣類や荷物が高熱のため自然発火して、火だるまとなった人々が火点となり、群衆の絶叫とともに道路上に大火流が走った。指定された避難場所は、ほとんどが最寄りの学校だったが、人々が殺到しラッシュ時の満員電車内のようになった。鉄筋コンクリート作りの講堂は、窓ガラスを一瞬にして溶かして、侵入した劫火により、白熱の溶鉱炉と化した。川に逃げ込んだ人々も、死から逃れることはできなかった。水面から首だけ出していた人々は、両岸から吹き付ける熱風と火焔で頭髪を焼かれて焼死したり、酸欠により窒息死あるいは一酸化炭素による中毒死したりした。また、あまりにも低い水温は、人々を、ショック死、凍死、溺死させた。
 東京大空襲訴訟の原告らは、自らは空襲による死は免れたものの、父母・兄弟姉妹等の最愛の親族を一夜にして亡くした。原告らのほとんどが、家族、家、財産を奪われて、戦災孤児となった。その生活は困窮を極め、生きるのがやっとという状態であった。そして、空襲の被害は、身体的障害、あるいはPTSD等の精神的障害として、現在もなお原告らを継続し苦しめている。
(参考文献:早乙女勝元著「東京大空襲」岩波新書)

  1. 石田 恵美子

    私は現在横浜市鶴見区に在住する72才の主婦です。昭和20年3月10日には、東京都深川区常盤町2丁目2番地に両親、兄弟7人の家族が父の経営する東亜香料店と言う清涼飲料の製造販売を生業として幸せな一家でした。私は八名川国民学校2年生の児童でした。一夜にして、父と姉弟は戦禍の犠牲となり、自宅の防空壕で亡くなりました。父は町会の役員であり避難できない責任があったと、母から私が有る程度判るようになってから聞きました。長兄は学徒で広島(原爆被災はありません)でした。4男の兄は集団疎開で新潟へ行って空襲は免れました。母と3男の兄と私は当時中学5年の次兄に先導され、たまたま向かいの阿部さん(大工さん)が仕事の都合で子供さんを預かり、その子供さんを連れ、清洲橋へ避難しました。翌日一夜にして焼け野原になった街を我が家があった方角に向かい、母の手に引かれ、累々と横たわり燻る、まるで炭素のような焼死体の中を夢中で歩いたのです。本当に当時8才だった目に今も焼き付いています。でも思い出したくなく、やっとこの頃母の気持ち、がどんなに悲しいものであったか判るようになりました。夫と二人の子供を同時になくしたのです。父と一緒だった姉はまだ21才歯医者さんへ嫁ぐことがきまっていました。まだ3才だった弟を背負ったまま我が家の地下壕で21才の姉、3才の弟、53才の父は短い生涯を絶たれました。いまイスラエル、パレスチナで繰り返されている戦争、幼い命が信じられないむごさでお互いの国の身勝手さの前に失われています。どうしてもっと賢い人が戦争を止めないのでしょう。戦争だから仕方がないと思っていましたが、絶対人間の責任です。母もなくなりました。兄たちもなくなり、私が伝えます。戦争はいかなる理由が有ろうと絶対してはいけないのです。人が人の命を奪う権利なんてあってはならないのです。戦争は愚かです。

  2. nakamura

    東京大空襲は国際法違反であることは明らか
    日本国を訴えるより前に、アメリカ政府に、オバマに賠償、謝罪を求めるべきです。

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