TOKYO リ・デザイン
May 22nd, 2005家の近くで、大規模な建設工事が行われている。地上45階の高層マンション、大型ショッピングセンター、大型商業施設、シネマコンプレックスなどで構成された、「TOKYO リ・デザイン」プロジェクトなのだそうだ。
この場所は、旧精工舎の跡地である。旧精工舎の建物はつい数年前まで残されていたが、取り壊されて、今や巨大な建設現場となった。私は毎日この横を通るのだが、工事区画をぐるりと囲む壁に、こんなことが書かれている。
「美しい驚きが、東京を変えていく。」
「大人から子どもへ、さらに次の世代の子どもたちへ、夢をリレーしていける街を目指して。」
素敵な言葉だが、果たしてこのキャッチコピーを考えた人は、ここがどういう場所だか知っているのだろうか。街が変わっていくのは当たり前のことだとしても、リレーしていかなければならないことは、奇麗な夢物語だけではないはずだ。
ここは、3月10日の空襲の中心地とも言うべきところだった。今日の安穏たる日常は、全く、想像を絶する悲惨な最期を遂げた多くの尊い犠牲の上に築かれているのだということを、私たちは忘れてはならない。
そして驚くべきことは、これが単なる比喩的な意味に留まらないことである。
この辺の江東デルタ地帯では、まだまだ多くの犠牲者の亡骸が地中に残されていると考えられる。実際、戦後何年も経って、工事現場から3月10日の犠牲者と見られる遺骨が発見された例がいくつかある。
例えば、1967年6月11日に、門前仲町の地下鉄東西線工事現場で、歩道の下、深さ1.5メートル程の地下にあった防空壕の跡から、6人の遺骨が発見されている[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]。大人4人と子ども2人の遺骨は、互いに寄り添うようにうずくまっていたという。空襲下、ある家族が防空壕に逃げ込んだが、焼夷弾の猛火に壕が耐えきれず全滅し、そのまま焼け土の下に埋もれてしまったのだろう。その後この遺骨は、手にしていた位牌の文字から身元が判明し、遺族に引き取られた。
また、1983年12月23日に、菊川公園の配水管埋工事現場で、やはり戦災遺骨が発見されている[写真版 東京大空襲の記録(早乙女 勝元 編著)]。これは恐らく、3月10日に菊川周辺で亡くなり、菊川公園に仮埋葬された人のものだろう。空襲後、街中に散乱したおびただしい数の遺体は、都の遺体処理班によって主な公園などに火葬抜きで仮埋葬された。菊川公園は小さな児童公園だが、この場所に仮埋葬された遺体は4,515体にものぼる。
戦後、1948年から1951年にかけて東京都は、都内の各公園などに仮埋葬された遺体を掘り起こして火葬し、東京都慰霊堂に納骨した。しかし手荒く仮埋葬された無数の遺体がすべて掘り起こされたとは考えにくい。地中に残された遺体はやがて骨となり、今ではバラバラになっているに違いない。近代的な重機がそれらを掘り返したとしても、もはや犠牲者の存在に気づく人はいないかもしれない。
ちなみに、「TOKYO リ・デザイン」プロジェクトの建設現場のすぐ隣にある錦糸公園には、3月10日の後、13,000体もの遺体が仮埋葬された。これは都内各地の仮埋葬地の中で、最も大きな数字である。