企画展「東京空襲を描く人々」 すみだ郷土文化資料館

February 19th, 2007

マップ

すみだ郷土資料館で開催中の企画展「東京空襲を描く人々」を見てきた。

すみだ郷土資料館では、以前から空襲体験者が描いた体験画を多く収集しており、それらを展示したり、画集として出版したりしてきた。今回の企画展もその一環であるが、内容は、単に完成した体験画を見せるのではなく、いくつかの体験画をピックアップして、その下絵となったスケッチ画と完成画を比較し、その違いを分析することで、完成した体験画を見ただけでは分からない、その絵に込められた作者の主観や苦悩を明らかにしている。

このように、断片的になりがちな体験者の記録を多角的に分析して、今では忠実に再現する術のない失われた光景を間接的に浮き彫りにしようという試みは、東京大空襲に関してはそれほど多くないだろう。地元の体験者たちと丁寧にコミュニケーションを続けてきた同資料館ならではの意欲的な企画である。

東京空襲の記憶は、体験した方々に深い心の傷を負わせています。この企画展では、区に寄せられた東京空襲体験画の作者数名にスポットを当て、今回、新たに体験画の「下絵」「デッサン」や「別作品」を新たに借用・収集し、「完成作品」と合わせて紹介します。同一の空襲体験を描いた一人の方の多様な表現を一堂に会し、それらを比較することによって、体験者が記憶を絵画作品に表現するまでの心の葛藤と軌跡をたどり、体験者の記憶の深層にあるものを考えていきたいと思います。
ちらしより

下書きのスケッチに描かれていた要素が、清書の完成画からは削除されてしまっていることがある。重要でないからではない。むしろ重要な要素、そもそもその絵を描くために最初に頭に思い浮かんだ中心的な物や事象が、筆を進めてやがて客観的説明的要素が描き加えられていくうちに、不合理さを感じさせ、小さく、もしくは完全に紙面から消されてしまった。

あるいは、一番脳裏に焼き付いている光景、あまりにむごたらしい様子、極端な悲しみの経験である肉親との別れの場面、これらは当然体験者が最も強く記憶しているところであろうが、それらを描くことは困難である。結果的に、完成した絵では、それらのイメージが抽象的な表現になっていく。

ほとんどの作品は、悲惨さを伝えたいという動機と、悲惨すぎて描けないという心情との葛藤を内包している。紙面の隅の方にある染みのような筆跡が、実は重要な意味を持っていることがあるのだ。

3月10日が近づくにつれて、こういった企画展示や追悼集会などが多くの場所で開催されるだろう。けれど今日、すみだ郷土資料館3Fには、私ひとりしかいなかった。静かな館内で、四方を激しい空襲被災の体験画に囲まれ、私は不思議な騒音の中にあった。

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