東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨・平和観音(多聞寺)
October 16th, 2006鐘ヶ淵は、カネボウ(鐘ヶ淵紡績)の発祥地でもあるが、足立区との境に近いこの辺りは、隅田川と荒川放水路にはさまれた路地の多い静かなところで、道を歩いていると古い家を多く目にする。
多聞寺(たもんじ)は毘沙門天が本尊で、毎年元旦から七草まで、隅田川七福神を訪ねる多くの人手で賑わう。入り口には古い山門が残されており、これは江戸中期(1803年頃)に造られた区内最古の建造物で、墨田区指定文化財となっている。
(前略)墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきました。こうした中で、多門寺山門が現存することは、貴重であり、周辺の意匠との関連や相違を検討するうえでも重要な建造物といえます。
墨田区教育委員会
(前略)この山門は、排仏毀釈、関東大震災、十五年戦争などの天災と人災の歴史をくぐり抜け、娑婆(人間自身が作り出した苦しみの世界)の人々の営みを見据えてきました。(後略)
隅田山 多聞寺
境内にはさまざまな地蔵や碑がある。その中に、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨が展示された一角がある。
東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は“炎の夜”と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃団を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎり、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、
不殺生の誓いを新たにしましょう。隅田山 多聞寺
その横には、空襲によって焼けた木の一部も展示されている。
戦災の証言者
パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の1991年8月12日、この木は荒川区西日暮里1丁目2番7号(旧、三河島4丁目3420番〜3421番)に新しくビルを建てるための堀削により発見されました。
東京地域では、1942年4月18日から、1945年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。
ここに展示されている木は、43回目の1945年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼かれた木です。
当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで罹災地域は、西日暮里を含め139ヶ所に及びました。
戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるとともに、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めています。1992年10月18日 戦災の木を保存する会
また、本堂に向かって左手には、平和観音像がある。これは、東京大空襲の犠牲者と「全人類が核戦争による破壊の危機に直面しているが…殺し殺されもしないという釈尊や大師の願いを成就すべく」と建立の趣旨が説明されている。1984年(昭和59)建立。[墨田区戦跡マップ(墨田平和委員会)]