東京大空襲から60年
May 19th, 2005私の家の窓から、墨田区内の家並みが見える。この風景を見るたびに、私は思うことがあった。
「60年前、この景色はどんなだっただろうか?」
議論を待たずして答えは明白だった。60年前の1945年、ここは一面の焼け野原だったはずである。3月10日のいわゆる東京大空襲によって、下町一帯は壊滅的な被害を受けていたのだ。
太平洋戦争の末期、1945年(昭和二十年)3月10日未明、マリアナ諸島から飛来したアメリカ軍の重爆撃機 B29 約300機は、超低空で東京東部の下町地区に侵入、北北西の強風下、2時間半に渡って1700トンにおよぶ焼夷弾を連続波状的に投下する無差別絨毯爆撃を行った。木造家屋の密集した人口過密地帯は瞬く間に火の海となり、強風にあおられた猛火は一大火流となって逃げ惑う人々を呑み込んだ。縦横にのびる無数の水路が逃げ惑う者の退路を断ち、川に飛び込んだ者も水面を這う炎の熱と水の冷たさのために多くは助からなかった。防空壕や鉄筋コンクリートの建物に避難した者は蒸し焼きになった。橋の上では両側から人が殺到したところに火がまわり、人々は折り重なるようにして焼け死んだ。空気が白熱化し可燃物は自然発火した。日頃から訓練していた、バケツリレーなどによる消化活動はまったく役に立たなかった。
この一晩の空襲で、東京下町地区は焦土と化した。罹災者100万人以上、負傷者4万人以上、そして死者は約10万人と言われている。この人的被害の大きさは、後の広島長崎の原爆に匹敵する。また、太平洋戦争中約130回に及んだ東京空襲による全死者の九割が、この3月10日未明の犠牲者である。特に被害が大きかったのは、旧本所区(現在の墨田区南部)、深川区(現在の江東区西部)、城東区(現在の江東区東部)浅草区(現在の台東区東部)で、私が今住んでいるここ旧本所区の焼失面積は実に95%に達した。
当時3歳だった私の父は、叔母に背負われながら焼け跡の街を歩き、どうして黒い人形が道にたくさん転がっているのかと尋ねたという。
今年は戦後の還暦。東京には、広島長崎のような公立の平和公園や戦災記念館はない。東京大空襲に関する記録資料は少なく、原爆関連の百分の一程度しかないとも言われる。とはいえ、60年という切りのよい年でもあるためか、今年は太平洋戦争に関する話題がメディアで多くとりあげられているようだ。NHK では27年ぶりに東京大空襲の特集番組を放映した。また、市販の文献に少しずつ目を通したり、近所の慰霊碑を見てまわると、意外といろいろな発見がある。自分が生まれるずっと前の、遠い歴史上の出来事と感じていたものが、毎日歩いているこの街角で、ついこのまえ起きた事実であるということを確信するのは、それほど難しいことではない。