震災戦災殉難者供養 夢違之地蔵尊(菊川児童遊園)

February 12th, 2006

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墨田区を南北に流れる大横川が新大橋通りと交差するところが菊川橋。その北西側のたもとにある菊川児童遊園内に、夢違(ゆめたがえ)之地蔵尊がある。石川光陽氏の写真の中に、ここで遺体収容作業をしている現場を撮影したものがある。

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3月10日未明の空襲では、大勢が集中して亡くなった場所というものがある。それは、小学校(当時の国民学校)と、橋だ。当時少ない鉄筋コンクリート製の建物であった小学校に人々は逃げ込み、そこで命を奪われた。またこの近辺には縦横に小さな川が沢山あり、そこに沢山の橋がかかっているが、焼夷弾の雨の中を逃げまどう人々は、背後から迫る炎から逃れようと橋に殺到した。しかし火災はあらゆる方向から広がっていたため、結局、橋の両側から人々が押し寄せて橋の上が大混雑となり、そこへ火がまわって大勢が集中して亡くなったわけである。

菊川橋は、本所区で最も大勢の人が集中して亡くなった場所のひとつだろう。この小さな橋の上で3000人が亡くなったという。このような悪夢の消滅を願い、善夢が導かれるように、1983年(昭和五十八年)3月10日、遺族や関係者によって夢違之地蔵尊が建立された。[昭和二十年東京大空襲関連史跡(墨田区)]

縁起が石版に書かれている。

夢違地蔵尊縁起
 一九二三年(大正十二年)関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者縁起(由来碑)五万八千名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月一日を記念日と定め、官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。一九四一年(昭和十六年)太平洋戦争勃発し、戦局利にあらず、殊に一九四五年(昭和二十年)三月九日より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した広島長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。
 まだ、春浅き三月九日夜半、雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を呼び合い逃げまどい、或は壕に入り、水面に飛び込み、或は、公園、校舎に走りついに力尽きてその声も消え果てやがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は目を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。
 この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない。而して復興なり一九八三年(昭和五十八年)三月十日誠心集い、浄財を集め仏縁深き弥勤寺住職の教訓を得てこれが悪夢の消滅を願いこれを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。
 時移り、再び多大な協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うものである。
 一九八五年三月十日
 弥勒寺第五十七代住職 岩堀 真至
 夢違之地蔵尊縁起碑建立 協賛者一同


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