竪川地蔵尊と焼けた榎(榎稲荷神社)
February 11th, 2006菊川小学校の近くにある榎稲荷神社の敷地内に、空襲犠牲者を供養する竪川地蔵尊がある。
3月10日未明の空襲では、火が町全体を覆い尽くす中、人々は当時少なかった鉄筋コンクリートの建物として小学校の校舎や講堂に逃げ込んだ。しかしすさまじい炎は窓ガラスを突き破り、屋内にいた者の命も奪った。菊川小学校でも多くの人が亡くなったが、犠牲者はその後、小学校に隣接する菊川公園に仮埋葬された。その数4515人。
戦後、地元の有志が1946年(昭和二十一年)5月に公園内に地蔵尊を建立して、1965年(昭和四十年)に、公園改修のため現在地に移転したのだという。[昭和二十年東京大空襲関連史跡(墨田区)]
木製の供養之塔には次のように書かれている。
正面:竪川地蔵尊戦災震災殉難者諸霊位供養之塔
右側面:昭和四六年三月十日
左側面:立川四丁目町会建立
また地蔵尊の由来が金属板に次のように書かれている。
大東亜戦争中昭和二十年(西暦一九四五年)三月十日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け下町一帯は壊滅状態となり尊い人命を数多く亡くし其の数実に10万人と言います。
攻撃に参加した敵爆撃機二九八機、投下焼夷弾一七八三t、被災者数100万人、焼失家屋二十七万戸、負傷者数14万人、当、菊川公園に埋めた人4515人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免かれ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり動詞の浄財により昭和二十一年五月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和四十年四月菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年三月十日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。
昭和五十九年三月十日 立川四丁目町会
また、榎稲荷の境内には、焼夷弾の炎で焼けて炭化した榎が残されている。幹は折れて木肌は焼けただれ、今は枯死している。