空襲被災地図
August 11th, 2009江戸東京博物館には、東京大空襲に関連する資料が多く展示されているが、中で私が最も興味深いと感じるのは、「東京被災地図」と題された一枚の大きな地図である。これは、1941年の、浅草区、本所区、深川区、日本橋区、城東区およびその周辺区の地図を下敷きにして、1945年3月10日未明の大空襲で犠牲になった人々の当時の住所と遭難地をひとつひとつ赤い線で結んだものである。線は、住所地から遭難地に向けて矢印になっており、人々が自宅からどこに向かって逃げたのかが分かるようになっている。
元となった資料は「都内戦災殉難者霊名簿」というもので、そこに記載された3月10日の犠牲者約9500人について、判明している住所と遭難地(亡くなったと考えられる場所)を抽出し、線で結んでいる。約10万人が亡くなったと言われる中で、わずか10分の1程度のサンプルではあるが、空襲の夜に人々が炎の中を逃げ惑い、そして力尽きるまでの足取りを俯瞰することができる。
自宅あるいは自宅付近で亡くなった方も多いが、中には区を越えて自宅から数キロも離れたところで亡くなっている方もいる。地図上では住所と遭難地を直線で結んでいるため、遭難地に至までにどのような道を辿ったのかまでは分からない。おそらくほとんどの人々は、あてもなく街をさまよったのだろう。
この地図ではっきり分かるのは、多くの方が集中して亡くなっている場所である。それは、橋と国民学校(現在の小学校)である。多くの線が各地からこれらの場所に集中している。少し離れた場所から地図を見ると、それらの場所に線が集まって赤くなっている。例えば、言問橋、江東橋、菊川橋、二葉国民学校、横川国民学校、菊川国民学校などである。
橋には対岸へ逃げようとする人々が両側から殺到し、身動きがとれなくなったところに火が回った。国民学校は当時数少ない鉄筋コンクリートの建築物だったために人々が殺到した。しかし窓などを突き破ってその中へ火が回ったために、焼却炉状態になってしまった。
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