言問橋

April 14th, 2008

両国にある江戸東京博物館の裏側、つまり横網町公園側の屋外通路に、古びた手すりのようなものが立っている。注意して見なければ気づかないような存在だが、これは博物館の展示物のひとつで、言問橋にあった欄干とその縁石である。


江戸東京博物館にある言問橋の欄干

次のような説明書きがある。

言問橋の欄干と縁石
言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち大火炎に包まれた。
橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。
1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。

墨堤をはじめ、三囲神社、長命寺などの一帯は江戸以来の名所であり、待乳山の聖天から浅草寺の大屋根に続く風景は、芸能の舞台において隅田川を示す代表的な風景とされている。またこの付近には、隅田川の渡し船として「竹屋の渡し」と「山の宿の渡し」があったが、その中間に、関東大震災の復興事業として、言問橋がかけられた。[すみだハンディガイド(墨田区文化観光協会)]

言問の名称は、在原業平の歌
「名にし負はば いざ言問わむ都鳥 我が思う人は ありやなしやと」
に縁をもつ。

両国橋や天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋であり[ウィキペディア]、辺りの風致との調和を考えて欄干が低く、船の往来が頻繁なため橋脚も少ない。脚間の距離の長さは、竣工当時、世界的なものあったという[一九三三 大東京寫眞案内(博文館)]。


完成後間もない言問橋[一九三三 大東京寫眞案内(博文館)]


完成時の橋上[関東大震災復興工事関係写真

3月10日の東京大空襲では、当時の浅草区、本所区、城東区、深川区などを中心とした広域が被災した。特に、無数の運河にかかる橋の上や、国民学校(現在の小学校)では、逃げ惑う群衆が殺到し、そこに火炎が燃え移り、大勢が集中的に犠牲になった。中でも言問橋の惨劇は筆舌に尽くしがたく、東京大空襲の被災体験を代表するエピソードとして後の人びとを震撼させてきた。

空襲時、降り注ぐ焼夷弾の雨の中、人々はどこへ逃げればよいのか分からなかった。なぜなら、どちらを向いても大火災が広がっていたからである。自然と足は水辺の方へ向かった。本所区をはじめ、当時の江東下町地域には今よりももっと多くの運河が縦横に流れており、人々は川に囲まれた大小のブロックの中に住んでいた。火の広がりは川で止まるだろうから、橋を渡って向こう岸へ行けば安全だと考えたのだ。しかし、状況は対岸の人々にとっても同じであった。大火災は複数の地域で同時多発的に発生していたし、猛烈な火炎旋風は周囲の空気を白熱化し、川を超えて対岸に飛び移った。行き場を失った避難民はやがて殺気だった群衆となり、川の両側から橋になだれ込んだ。

言問橋は、橋長238.7m、幅員 22.0m という非常に大きな橋だが、その上も人と荷物で溢れかえり、押し合いへしあいの大混乱となった。次々に浅草側と向島側の両岸から人が押し寄せるので、橋の上から引き返すこともできない。出動してきた消防車も人ごみにのまれて立ち往生し、人の流れを阻害する要因となった。やがて舞い来る火の粉が衣類や荷物を焼きはじめ、燃え上がったかと思うと、火はすさまじい勢いで橋の上をなめ広がり、またたくまに人々を劫火の中に沈めてしまった。まさに阿鼻叫喚の巷であったという。欄干を乗り越えて川に飛び込んだ者もいたが、ほとんどは助からなかったという。

その光景を実際に目にした狩野光男氏は当時14歳。後年、画家として精緻な体験画を描いた。


狩野氏の描く言問橋の惨劇

3月10日、自宅のある浅草区千足町3-11(現在台東区浅草5丁目)から、言問橋近くの隅田公園(浅草川)に至った。公園は人が一杯で大混乱となり、それまで一緒だった家族とはぐれてしまった。呼吸もくるしく、雨のようにふりそそぐ火の粉の熱さに耐えかね、隅田川に飛び込んだ。私は、橋下の石段に割り込んで入り、そこで燃えあがる言問橋を見あげた。橋上は燃えあがり、人々は欄干にはりついていた。
[あの日を忘れない 描かれた東京大空襲(すみだ郷土資料館)- 言問橋炎上 家族全員を亡くした橋の記憶(狩野光男)]

橋の上にいた人たちはほとんど焼け死んでしまったはずだから、言問橋の惨劇を間近で目撃した狩野氏の体験は非常に貴重なものだろう。またその悲惨なエピソードを克明に描き出した氏の作品は、東京大空襲の夜、約300機のB29から投下された1700トンにもおよぶ焼夷弾の嵐の下でいったい何が起きていたのかをビジュアルに再生した傑作であり、我々の想像力を痛烈に刺激するイコンとして機能している。

3月10日の朝が明けると、言問橋は死体で埋め尽くされ、足の踏み場もなかったという。死体は、黒く炭化したものや赤むくれのもの、未だくすぶりつづけているもの、マネキン人形のようなものなど、様々であった。

死体の山となった言問橋の凄惨な様子は、多くの人が目にしている。逃げ惑いながらかろうじて一命をとりとめた被災者達が、朝になって、自分の家へ引き返そうと言問橋に差し掛かったのである。死体を跨いだり踏んだりせずに橋を渡ることはできなかったという。

昼ごろになると、軍関係者が来て、遺体をスコップですくってトラックに積んでいった。体の原型をとどめない、男とも女ともわからない断片を、まとめてかき集めた。多くの遺体は身元を確認できる状態ではなく、そのまま仮埋葬地へと運ばれて埋められた。橋上には焼け死んだ人々の血痕や脂の痕が残った。

現在も、両岸に近い部分の石柱は当時のままであり、黒く焼けただれた痕が残っている。


現在の言問橋[ウィキペディア


現在の言問橋


黒く焦げた痕が残る親柱


黒く焦げた痕が残る石柱

いったい、空襲の夜に言問橋の上で何人が亡くなったのだろうか。いくつかの文献を当たってみたが、はっきりとした数字を探し出すことはできなかった。しかし橋上の面積から考えて、およそ5000人から1万人が犠牲になったのではないかと思われる。(菊川橋は面積にして言問橋の5分の1程度だが、約3000人が亡くなったという。)

先日、日本テレビで、東京大空襲をテーマにしたドラマを放映していたが、その中で、言問橋の惨状を描いたシーンがあった。当時の橋の一部を再現したセットを使って、押し寄せる群衆の混乱と、その人々が次々と炎にのみこまれていく様子が再現されていた。それが実際の状況にどの程度近いのか分からないが、やはり映像による表現にはインパクトがあった。


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  1. 千葉 規

     私は昭和13年8月生まれの6人兄弟の第一子で男です。東京空襲が激しくなるまで当時の蒲田区仲蒲田の稗田神社近く、円頓寺すぐ裏に住んでいました。
     昭和18年頃、父だけがここに残り、私と母は郷里の仙台近郊に帰りました。技術者だった父は撤退した米国の会社から、向島の鈴木工業所という兵器工場に強制的に勤務させられたため、単身蒲田に残ったと言うことです。
     その父が、生前繰り返しくりかえし、子供だった私に語ったことの一つが、20年3月10日朝の言問橋の惨状についてでした。橋の上の死屍累々を跨ぎながら会社の焼け跡に行ったと言うことです。父はとくに多数の子供の焼死体を見て郷里の私を思ったのでしょう。父の話は私の脳裏に焼き付いています。

     ここ数年の間に、東京・仙台間のウォーキングを仲間達と2回ほど行い、そのたびに言問橋を渡り、向島5,4丁目を歩く機会がありました。
     じつは、大空襲の時父は九死に一生を得たのでした。単身生活であった父は、向島の会社の宿直を家族持ちの職員達から頼まれて3日ほど連続して宿直していたので、3月9日の宿直は4日連続となるから勘弁してくれと言って、蒲田の自宅へ帰ったと言うことでした。そのため10日未明の大空襲を免れたと言うことです。運というのは不思議なものです。その後父は私以外に5人の子供をもうけ、満92歳で他界しました。

     私はかろうじてさまざまな戦争の臭い、兵隊さんの汗の臭いやら、仙台空襲の状況などを記憶しております。どこの国にも占領されない方が良いに決まってますし、占領されれば日本兵が満州で行ったような「悪さ」を受けるかも知れません。しかし、言問橋の惨状に限らず、戦争による被害よりはマシだと思います。
     扇動されたナショナリズムに乗らないことは、その時代に生活する人間にとってはかなりの判断力と強靱な精神力が必要なことは、ナチ下のドイツ国民を見ても想像できます。しかし、断固として戦争を拒絶しなければならないと、強く思います。

  2. 行方一

    母の体験をご紹介致します。母は当時女高生でしたが学窓半ばで勤労動員され三鷹にあった軍需工場に送られてエンジンの部品を削る旋盤の油差しをしておりました。軍需工場でしたから艦載機の機銃掃射や爆撃で友を次々失っております。いつもは会社の寮に寝泊りしておりましたが運命の日は陸軍記念日だったので江東区にある母方の叔父宅を訪れておりました。

    夜半警報で目が覚め外に出て見ると既にあちこちから火の手が上がっていたそうです。叔父の家族と共に避難しましたが言問橋に着いた頃には対岸も燃えていましたから躊躇する人達で身動きが取れなかったとの事。年長の従姉妹が決断し橋を渡りました。あそこで数分なり遅れていれば母も私も存在しておりません。

    母は三年の課程を二年で繰り上げ卒業となりまともな教育は受けられませんでした。その後辛い思い出の多い東京を離れて父の故郷である関西に移っております。私は生まれ育ちは関西ですが意に反する転勤で東京に移り毎年3月10日をこちらで迎えております。幸運にも言問橋で生き残った母から生を受けた愚息と致しましてあの晩亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

  3. 春のうららの隅田川♪♪ : 安田屋家具店

    […]  「言問橋」です。それは今から66年前です。 […]

  4. 園田和男

    私は、昭和6年の秋に生まれました。昭和20年3月頃は、馬道に住んでいました。あの夜私と母は、近所の御夫妻と4人で言問橋を渡り、逃げました。毎年
    この時期になると、言問橋で花を川面に捧げております。元気な間は、続けたいと思っております。

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