東京都戦災誌

June 26th, 2005

タイトル:東京都戦災誌
編集兼発行者:東京都
発行:1953年3月30日

1953年(昭和28年)に出版された、東京大空襲の被害状況とその背景情報が網羅的にまとめられた最初の、そして行政側からの公的資料としては恐らく最大の文献。

戦後8年目、進駐軍による占領が終わるのを待っていたかのように東京都が発行したこの本は、市販の書籍ではなく、調査結果をまとめた白書のようなものである。とはいえ、全574ページの膨大な資料の内容を見ていくと、東京都政史上最大の災禍である首都空爆の有様を客観的に記録するという一大作業に関わった都政史料館員達の悲壮な執念が感じられてくる。

実際、巻頭にある当時の知事、安井誠一郎の言葉には、市民の生活を保護するはずの行政が、太平洋戦争末期、その基本的な機能を完全に失い、市民の生命を極端に危険にさらす事態となったという事実経緯を、自らが詳細に記述することへの戸惑いが伺える。

 首都東京が兵火によつて災害をこうむつたのは、明治維新の際における上野の彰義隊の変で附近一帯が焼き払われたときと今次の第二次世界大戦による戦災との2回で、維新の際の被害はごく一部の地域にとどまつたから、東京のほとんど大部分に及んだ戦災は今度が最初といつてよい。東京は江戸時代から350年もの永い間に、幾度となく火災に見舞われ、しばしば焦土と化しはしたが、戦禍をこうむつて悲惨な運命のもとにふみにじられることのなかつたのは、欧洲や中国などの過去に比べてむしろ幸いであつたといえる。
 このたびの大戦で、東京都民は相つぐ空爆による被害のため、いまだかつてない悲惨事を経験させられた。火災や水災に対する災害予防なり対策なりは大都市においては平常より計画され実施されて、それぞれ万一に備える処があるのは当然のことであるが、戦禍を防ぐための準備、空爆から守るための措置というものは不断の災害予防対策だけでは不充分で、戦時になつて急速にその対策がうちたてられ、機敏にそれが実行にうつされねばならない。
 今次の大戦で我国都市のこうむつた戦災は東京をはじめ140余都市におよび、その罹災者はおびただしい数にのぼつた。これらの各都市がそれぞれ、どのようにして空爆から守るための対策を講じ、施策を行つたか、又それにも拘らず兵器の進歩や戦争科学の発達がそれらの対策を追いこして、多くの都市を焦土と化したか、又どのような応急措置をとつたかを詳しく残しておくことは、今後の諸都市の復興計画の上にも必要なことはいうまでもないことで、特に首都としての東京の防空施策や戦争被害、あるいはその復旧状況などを一冊にまとめたものが欲しいという声を聞くこともしばしばである。
 東京都において早くから戦災誌を刊行して大方の参考に供しようという計画はあつたのであるが、なにぶんにも資料がほとんど焼失したことと戦時中の機密主義と相まつて、その資料の集收が困難で、容易に編修に着手できなかつた。
 ここに東京都戦災誌が完成をみるに当つて各方面よりの資料提供や御協力に感謝し、不備な点についても御了承を願うとともに、ここに記載されたような戦禍を二度と再びくり返さぬよう都民の各位とともに努力してゆきたいと思う。
 首都建設法の施行によつて東京都ばかりでなく国の力を以て復興計画の実現に努力しつつある現在、明るい平和な首都東京の再建にこの書の役立つてくれることを切望する。

 昭和28年3月
 東京都知事 安井 誠一郎
[東京都戦災誌(東京都)]

いくら軍事政権下であったとはいえ、議会制民主主義国家の首都である東京がこのような壊滅的な被害を受けたということは、都(開戦時は市)は市民の生活の場を戦場にしてしまった責任を追求される立場であるが、それと同時に、国政の暴走に翻弄されて多くの財産、組織基盤を失った被害者でもあった。都政を成立させる都民は死に、都政の対象である都民の日常は比類無きまでに不幸だった。人々の暮らしが貧窮し、社会の信頼が崩壊してく様子を淡々と記録したこの本は、戦後の復興にかける東京都が差し出した、戦時中の政府や軍部に対する静かな上申書のようにも見える。やるだけのことはやったが、悲惨な結果の重さに比べれば、やれたことはほとんどなかった。近代戦争とはそういうものであり、その責任はどこにあるのかと。

またこの本の編纂に関する基本的な課題は、社会的に重大な事件であるほど後世のために十分な記録を残すことが望まれるのに、事件が深刻すぎれば、もはやそれを十分に記録することはできないというジレンマである。事件の本質を知るのは死者だけだ。生き残った者も、あまりの苦痛の大きさに客観的な視点を持つのは難しい。多くの前提資料は焼失した。戸籍簿や住居記録が消えてしまえば、死傷者や罹災者の状況を把握することができない。いやそれ以前に、そういった調査をする人間がいなくなってしまった。住む場所を失った罹災者はもちろん、その他の住民も、3月10日以降はその多くが地方へ疎開していった。

例えば墨田区(当時の本所区と向島区)の人口を見てみても、戦前の1937年(昭和12年)には両区を合わせて約50万人であったのが、1945年(昭和20年)には約7万7000人とピーク時の15%にまで激減した[ふるさと墨田(墨田区教育委員会)]。戦後回復していったものの、現在の人口は23万3781人(2005年6月1日現在)で、戦前の半分にも満たない[墨田区のお知らせ・すみだ 2005.6.21(墨田区)]。

このようなジレンマについて、この本では「例言」として断り書きをしている。特に死傷者数をはじめとする統計的な数値は正確性を欠き、そして将来それが正確に修正される望みはほとんどないだろう。

例言

 戦災誌は、戦争による惨禍の実状実害を精細に記述することが最大眼目である。しかし戦災はその性質上天災の場合とちがい、十分の用意と計画とをもつてこれに臨むわけであるから、予想するところの災禍を未然に防止し、あるいはこれを最小限度に阻止する手段方法を講じて、これに備えると同時に、一旦災禍を生じた場合は、その対策が準備されていなければならない。したがつて戦災誌は、その災害を引き起した戦争の経過、戦災に備える用意方法、災禍の実状実数、被災者および被災物に対する救済復旧方法等を記載しなければならない。
 本誌編集の態度は、以上のような考慮の下に定められた。しかし遺憾なことには、終戦後すでに八星霜をけみしているので、鋭意資料を探索したが、すこぶる不完全で修史の目的を完全に果しえないのは、敗戦の結果連合軍の占領下にあつて十分自由に資料を収集しておくことが出来なかつたことと、戦災で貴重資料が焼失したためである。しかし残存する限りにおいては全力をあげてこれを集収するに努めた。しかも集中的に本誌編集に従事したのはわずかに半歳であつて、編集中しばしば資料について討議を重ねたが、とりわけ遺憾なことは被害数字の的正なものが無く、同一事の数字で相異なるものがあり、あるいは断片的でその全部をうかがいえない嘆もあるが、しかし併記して参考に便にした。けだし統計的数字は的正を得れば一目歴然事態の概括を会得させるものであるが、的正を欠く場合には、事明らかであるがために一層の誤りを伝える結果となる。しかも現在これを補正しうる資料も方法もないので、当時の残存報告によつて記録にとどめる外なかつた。読者の了解を得たい。幸に外に正確な数字を得ることが出来たならば他日の機会にこれを訂正することを期したい。
 資料の均整を期したけれども、その過不足のために所期の目的を達することができないで、利用しえられる限りで満足する外なかつたこともまた了とせられたい。
 また戦時中、時の政府が命名した事件名その他については、戦後改称せられたものもあつて、同一件で異称を付けられたものもあるが、一々これを改めなかつたのは、他書他記録と照合の際混乱のおそれあるがためで、他意はない。戦後の資料によるものはとくに書き改めることなくそのまゝ記載し、必要に応じて註記することに努めた。
 おわりに写真その他貴重資料を提供された各新聞社その他の御厚意に深く感謝する。
 なお、本誌の編集は、都政史料館全員の協力に成つたことを附記する。
[東京都戦災誌(東京都)]

とはいえ、ここには膨大な記録がある。太平洋戦争開戦時から、空襲の激化、終戦、そして戦後の復興まで、東京都の行政が行った大小の取り組みを網羅的に記録している。防空法(改正防空法を含む)の全文や、都民への防空指導の内容、東京空襲全日の被害記録、戦後の復興事業についてなど、その後の空襲関連の記録作業を支える基礎資料としてこの本が果たした役割は大きい。また、わずか戦後8年目の記録として戦後の混乱期を冷静に捉えようとする姿勢や、仮埋葬遺体の改葬といった生々しい作業の経緯などは、それが行政資料という客観の体裁を持つことでかえって、現在でも解釈が十分可能となっている。

この本は、都内のいくつかの図書館で借りることができるが、民間の書籍データベースなどには情報がないと思われるので、以下に、目次を掲載しておく。

東京都戦災誌目次

  • 第1章 太平洋戦争の経過
    • 第1節 満州事変および日支事変より太平洋戦争へ
    • 第2節 太平洋戦争の経過
      • 前期—日本軍緒戦の成功から南洋諸島への侵出まで
      • 後期—連合軍の反攻から日本軍の降伏まで
    • 第3節 戦時中の国内状況
      • 1 東条内閣時代
      • 2 米内・小磯協力内閣時代
      • 3 鈴木内閣時代
      • 4 終戦による連合軍の進駐
  • 第2章 戦時の市民生活
  • 第3章 東京都の防衛対策
    • 第1節 防空法
      • 第1項 自治防空と防空の法制化
      • 第2項 防空法
      • 第3項 改正された防空法
      • 第4項 防空関係法規
    • 第2節 東京都の戦時体制
      • 第1項 記述の範囲
      • 第2項 戦時の東京都の地位
      • 第3項 都の戦時機構の変遷と防空活動
    • 第3節 町会及隣組の組織並に活動
      • 第1項 町会および隣組
      • 第2項 町会隣組の戦時体制
      • 第3項 終戦と町会隣組制度
      • 第4項 家庭防火群
      • 第5項 防空群の組織
    • 第4節 東京都庁防衛本部
      • 第1項 東京市防衛本部
      • 第2項 東京都庁防衛本部
    • 第5節 防空指導
    • 第6節 防衛施設の強化
      • 第1項 防火改修事業
      • 第2項 防火用井戸と貯水池の設置
      • 第3項 待避壕及び横穴式防空壕の設置
      • 第4項 防空々地地区の指定
      • 第5項 防空道路の建設
    • 第7節 疎開対策の概要
    • 第8節 建物疎開
    • 第9節 物資疎開
    • 第10節 人員疎開
    • 第11節 学童疎開
    • 第12節 島嶼民の引揚
  • 第4章 戦争被害
    • 第1節 戦災日誌
    • 第2節 被害統計
  • 第5章 応急措置
    • 第1節 戦前における応急計画
      • 第1項 応急飲食料対策
      • 第2項 災害に対する補償対策
      • 第3項 動物園猛獣の処理
      • 第4項 血液型の調査
    • 第2節 戦災応急対策
      • 第1項 罹災者措置
      • 第2項 空襲対策の強化
      • 第3項 援護措置
      • 第4項 倉庫防衛態勢の強化
      • 第5項 鉄道の対都民救護対策
    • 第3節 空襲激化に伴う措置
      • 第1項 3月9・10日の戦災による応急対策
      • 第2項 4月13日及び15・16日の戦災の応急対策
      • 第3項 5月末以降の措置
      • 第4項 仮小屋壕舎生活者対策
      • 第5項 罹災者救護措置の概要
      • 第6項 罹災者集団収容措置
      • 第7項 罹災者集団疎開対策
      • 第8項 東京都戦災者相談所の活躍
      • 第9項 災害時における死体の収容と仮埋葬
      • 第10項 道路橋梁の応急修理
      • 第11項 交通局と水道局応急の対策
      • 第12項 学童疎開橋架対策
      • 第13項 疎開保育所の開設
  • 第6章 終戦から復旧へ
    • 第1節 終戦
      • 第1項 敗戦近し
      • 第2項 原子爆弾
      • 第3項 ソ聯の参戦から終戦へ
    • 第2節 終戦後の変動
      • 第1項 戦時態勢の解除
      • 第2項 都行政機構の変改
      • 第3項 終戦後の社会情勢の変化
      • 第4項 終戦後における罹災者対策
      • 第5項 仮埋葬死体の改葬
      • 第6項 島民復帰の問題
    • 第3節 戦災地復旧対策
      • 第1項 戦災土地の利用
      • 第2項 灰燼処理事業
      • 第3項 区劃整理事業
      • 第4項 復興計画
      • 第5項 露天対策
    • 第4節 一般住宅復興問題
      • 第1項 応急簡易住宅の建設案
      • 第2項 住宅の払底
      • 第3項 東京都の住宅対策
    • 第5節 都施設の復興
      • 第1項 河川橋梁関係の復旧
      • 第2項 公園関係の復旧
      • 第3項 水道関係の復旧
      • 第4項 塵芥処理の復活
      • 第5項 交通関係の復旧
      • 第6項 教育施設の復旧
  • むすび 首都建設法


『東京都戦災誌』の奥付 なぜか「戦災史」となっている

  1. 石崎政治

    東京空襲で被災した被災した30数名が当時の「国立結核療養所(清瀬病棟)」に搬送され、全員が死亡し現在清瀬市野塩の円福寺に無縁仏として埋葬されている。この戦災罹災者の氏名を探し出せればと探っているが当時の地元警察が秘密を理由に処分したとの事であるが、どこかに罹災者名簿があればと思っています。戦後64年過ぎてるが無縁仏を埋葬している地元清瀬として探求する方法を模索している。どんな資料でも見つかればと思っています。 「清瀬市平和祈念展等実行委員会委員長イシザキマサジです。連絡先は清瀬市役所企画部市民協同課まで

  2. 久米晶文

    HP興味深く拝見いたしました。

    両国警察署長の高乗釈得氏について調べておりますが資料がありません。何か手がかりをご存知でしたらご教示いただければ幸いです。

    よろしくお願いいたします。

  3. 高乗正臣

    久米晶文様
    私は、高乗釈得の三男(昭和19年生まれ、現在は大学教員)であります。
    父が両国署長をしていたときは、私はまだ赤ん坊でありましたので、詳しいことは知りませんが、
    父は、その後長く警察畑を歩き、水上警察署長、警視庁保安課長、大森署長、警視庁第七方面本部長、
    同第八方面本部長(初代)を歴任、最後は徳島県警本部長で勇退、昭和35年に病を得て死去しました。
    手元には、父の書き残した『我が家の遺訓』という書物があり、その末尾に略歴が書かれています。
    何か参考になれば、後日、お知らせすることも可能です。
    取り急ぎ、御連絡まで、
            高 乗 正 臣

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