防火用水(両国四丁目)

July 19th, 2005

近所を歩いていると、時々、古いコンクリート製の防火用水槽が道端に置かれているのを目にする。下町では路地に入ると家々の前は大小の鉢植えでいっぱいだが、その中で大型の植木鉢として代用されていることも多い。あるいは、単にうち捨てられたようにポツンと塀際に置かれていることもある。

数年前まで住んでいた両国の家の近くにも、道端に防火用水槽が置かれていた。おそらく戦時中のものだろう。近所の誰も積極的に所有している様子がないところを見ると、この防火用水槽はこの場所に60年間ずっと置かれていたのだろうか。とても不思議だ。


道端の防火用水


道端の防火用水

防火用水は、文字通り、火事の時にすぐに消火作業ができるように、普段から水をためておくためのモノだが、この古いタイプの水槽は、ほとんどが現役を退いている。かわりに、今でも下町では辻々にドラム缶を使った防火用水が置かれている。


最近の防火用水

下町は木造家屋が密集しており、昔から防火意識は高い。一度火事になれば火の回りは早く、大型の消防車による消火活動も効率的に行えないことは想像に難くないため、現在でもこういった用水を常備しているのだろう。

戦時中には、市民は防空法によって、自分の家や隣組の管轄区域の防火(消火)活動を義務づけられていた。だから防火用水槽は、防空壕と同様に、街中のいたるところに設置されていたと思われる。どっしりとしたコンクリートで作られているのは、火災で燃えてしまったり爆風で飛ばされたりしないためであろう。

1944年から1945年にかけての冬は記録的な寒波が到来し、夜になると用水が凍ってしまったという。当時12歳だった早乙女勝元氏は、3月9日の夜、東京大空襲がはじまる前のことを次のように回想している。

 私はふて寝を決めこんでいたのだが、そうだ、明日10日はふつうの日ではないと思いなおし、外に出て、防火貯水槽にはりつめた氷だけ粉砕しておいた。これだけは「少国民」の任務で、いざというとき、さっと水がしようできるようにしておかなければならない。しかし、粉砕した氷のかけらば烈風で路上をころげていきそうなのにキモを冷やし、すぐ家へころがりこんだ。[東京が燃えた日(早乙女 勝元)]

3月10日未明の東京大空襲は、それまで軍部や市民が想定していた規模をはるかに超える火災が下町一帯を包んだ。訓練を重ねていた隣組によるバケツリレーはおろか、消防隊による消火活動も、街全体が燃えている状態では、ほとんど意味がなかった。人々は消火のためというよりも、灼熱地獄の中で水を求めて防火用水を探した。

体験談の中には、逃げながら道端の防火用水の水を防空頭巾の上からかぶったり、口に含んだり、体ごと貯水槽に入って難を逃れようとしたりする場面が多く登場する。しかし小さな水槽の水はすぐに干からびてしまった。朝になると、そこかしこの防火用水槽のまわりで多くの人が亡くなっていたという。東京大空襲の体験画集である『あの日を忘れない 描かれた東京大空襲』には、そういった光景がたくさん描かれている。

そこで私は、決して忘れることができない光景を見た。乾ききった防火用水のなかに1〜2歳の子どもを浸けている母親の姿があった。そして、その母子は、その姿勢のままで半ば白骨化していた。防火用水の周辺にも、強い炎で、まるで火葬されたかのような白骨化した人々が転がっていた。[あの日を忘れない 描かれた東京大空襲(すみだ郷土資料館)- 子どもを防火用水に浸けた姿のまま白骨化した母子(羽部権四郎)]

西十間橋付近では、からからになった防火用水槽に白骨化した人が風呂の湯槽に浸かるような格好で死んでいた。[あの日を忘れない 描かれた東京大空襲(すみだ郷土資料館)- 防火用水に浸かったまま白骨化した人(坂本邦男)]

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