川の中をちょっと見たら、一面地獄の流れね

March 30th, 2008

深川区平井町に住んでいた小久保たか子さん(当時19歳)は、3月9日の夜、豊住町の友人の家にいた。コタツに入っておしゃべりをしていると、北風がはげしく雨戸をゆすったので、「こんな風のときにB公がきたら大変なことになるわね」などとつぶやいた。

警戒警報があったが、その後、敵機二機は退去したとラジオが告げた。しかし小一時間もしないうちに、急に外で轟音がしはじめた。驚いて外に出てみると、B29の編隊が頭上に現れ、あちこちに火の手が上がりはじめた。路上はたちまち逃げ惑う人々でいっぱいになった。

友人は、4歳になる子どもを背中におぶって、そのままどこかへ避難していった。たか子さんは一度自分の家に戻ろうとしたが、そのためには、横十間川を渡らなければならない。しかし橋は避難民であふれて通れない。そこでたか子さんは、水面に浮かべられた材木にかかる荷揚人足用の細い渡し板の上を四つん這いで向こう岸まで渡った。

家につくと、母と妹が荷物をとりまとめていた。「早く早く」とせきたて、母妹を先に隣組一同の集結地点へ行かせた。たか子さんは二人を見送ると、自分も逃げる支度をした。いくつかの衣服や位牌などを手提げに入れてから、表へ出た。それが午前一時頃。

外は、焼夷弾の嵐だった。ガラガラとものすごい音をたてて火を噴きながら落下してくる焼夷弾。油脂の飛沫がそこら中で燃えている。光と煙で周りがよく見えない。母と妹が逃げた方向はあきらめ、再び横十間川の方へと引き返した。

川沿いの道にはもうほとんど人がおらず、炎の影だけが川の水にゆらめき、たか子さんは自分だけが逃げ遅れたことを知った。あせって足がもつれた。その時、前方から何頭もの馬がたてがみを燃やしながら狂ったように走ってきた。近くにあった、馬屋と呼ばれた運送屋の馬が逃げ出したのだろう。もう少しで蹴飛ばされるところだったが、なんとか炎上する二階屋の下をくぐりぬけて東陽公園の方へ走った。そして東陽町から砂町方面を目ざした。

その後、通称「電気ボリ」と呼ばれた運河に突き当たった。橋のたもとには大勢の避難民がむらがっている。木橋がどろどろと燃え盛っていて、渡れないのだった。しかし後ろからはものすごい火焔が迫っている。一刻の猶予もない。うた子さんは、運を天にまかせて、一気に火の橋に飛び込み、向こう岸まで走り抜くことに成功した。

すると他の人々も「大丈夫だ、それ行け」と一斉に橋に走り寄った。そして、うた子さんが振り向いた時には、もうそこには橋はなかった。燃え尽きた橋が人間もろとも川の中に崩れ落ちてしまったのだった。

その悲惨なことといったら……おそろしいうめき声や、悲鳴、おとうちゃん、おかあちゃんと、血を吐くような子どもの声。その声の上に、メキメキ、パキパキ、シュウシュウとくずれた橋が音をたてて燃えさかり、そりゃもう、……ことばにいいつくせません。川の中をちょっと見たら、一面地獄の流れね。水なんかちらとも見えず、血のように赤い火が、水の上に盛り上がって大蛇みたいにうねってたのよ。その水の上の、なにかにすがろうとして、大勢の人が、手を上げ、頭をふり、命からがらうごめいている。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]

たか子さんはその光景を前に何もできなかった。そして工場の裏の入江のような泥水につかって一夜をすごした。途中でおぼれかけたが、朝鮮人と思われる人に助けられ、朝を迎えることができた。

友人とその子どももなんとか生き残ったが、4歳の子どもは大火傷を負った。

たか子さんの家族は、たか子さん以外、助からなかった。

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