墨提
April 3rd, 2006向島の隅田川沿いの歩道を墨提と呼び、桜並木となっている。墨提一里の千本桜だ。ここは江戸時代からの桜の名所であり、毎年春に多くの花見客が訪れる。
徳川八代将軍吉宗が1717年(享保二年)に堤防保護と風流を考えて桜を植樹し、庶民の花見を推奨した。これが花見の風習のはじまりとも言われる(同様に吉宗は花火大会のはじめである両国の川開きの水神祭も開催した)。その後も村民の手によって墨提の植樹は続けられた。維新の混乱や水害にもかかわらず、被害にあった木、老木、枯れ木は若木に植え替えられ、墨堤は常に名声を保ち続け、現在に至る。[墨田区文化観光協会ウェブサイト:さくらまつり]
墨提を含めた隅田川の両岸は現在は隅田公園となっている。隅田公園は、関東大震災後、東京の火除地として建設され、1931年(昭和六年)に完成した。墨提はアスファルトに舗装され、近代的な遊歩道となった。
1933年(昭和八年)頃の隅田公園
[一九三三 大東京寫眞案内(博文館)]
吾妻橋の東詰には、「隅田公園入口」と彫られた公園完成当時の石柱が今も残っており、裏には「昭和七年四月吉日 復興完成記念」の文字が見える。
昭和六十年には、言問橋の北側に新たに歩行者専用の桜橋がかけられ、両側の隅田公園を結んだ。[すみだハンディガイド(墨田区文化観光協会)]
三月十日の空襲では、言問橋をはじめ、隅田川にかかる橋の上、橋の両側で多くの犠牲者が出た。川に入って命を落とした人も多い。
作家の早乙女勝元氏は、空襲の数日後に隅田公園を訪れた時の光景を次のように回想している。
ほんとうはまもなく花見の季節なのに、芽という芽を焼きつくされた枝には、どれもこれも、色とりどろのおびただしい布片がまとわりついて、風になびいている。あの夜、逃げていく人たちの身から、荷物から、強風に引きはがされ吹き飛ばされて、枝にからまったものにちがいなく、とうてい手の届かなぬ高さにまでぴらぴらと北風にはためいているのは、一種異様な花盛りとでもいうべきでしょうか。[炎のなかのリンゴの歌—東京大空襲・隅田川レクイエム(早乙女 勝元)]
隅田公園は、犠牲者の仮埋葬地として大規模に利用された。三月十五日現在で警視庁がまとめた仮埋葬地ならびに仮埋葬数調査報告書によれば、向島側だけで六千三百体以上が仮埋葬されたという。
現在墨提の桜は、最後の植栽から35年が経過し、生育環境の悪化によって多くの衰弱が見られる。墨田区では平成十六年度から四カ年計画で桜の保全と創出事業を行っている。[墨田区文化観光協会ウェブサイト]