梅若堂(木母寺)
February 27th, 2006向島にある木母寺は「梅若伝説」ゆかりの寺として知られ、開基は平安の中ごろとされる。この梅若伝説を題材にした謡曲「隅田川」は、世阿弥の息子である観世十郎元雅の作品だが、当時まだ東国の未開地であった東京を舞台にした数少ない文献として、東京の歴史地理を研究する上でも重要な役割を果たしているという。
梅若伝説とは次のような物語だ。
今からおよそ千年前の平安の中期、京都の北白川に住んでいた吉田少将惟房卿の子「梅若丸」は、十二歳の時に人買いにだまされて関東へ連れてこられた。やがてこの地まで来た時に重病になり、足手まといとなったため、隅田川に投げ込まれてしまった。幸い柳の枝に衣がからみ里人に助けられて手厚い介抱を受けたが、我身の素姓を語り、
「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと」
という一首を残して息絶えてしまった。時に貞元元年(976)3月15日であった。たまたま来あわせた天台宗の高僧忠円阿闍梨が梅若のために塚を築き柳の木を植えた。これが隅田山梅若山王権現と呼ばれる梅若塚で、その後村人はは梅若丸の身を哀れと思い供養した。
一方、我が子の行方を尋ねてこの地にたどり着いた梅若丸の母「花子の前」は、たまたま梅若丸の一周忌の法要に会い、我が子の死を知ってひどく乱心し、出家してしまった。名を妙亀(みょうき)と改め、堂をかまえて梅若丸の霊をなぐさめていたが、ついに世をはかなんで近くの浅芽が原の池(鏡が池)に身投げてしてしまったという。[すみだハンディガイド(墨田区文化観光協会)]
この悲話は 謡曲「隅田川」、浄瑠璃「隅田川」、長唄などにうたわれ、また、戯作や小説にもなって多く人の涙を誘った。
梅若塚のお堂は、今はガラス張りの建物内に保存されている。もとは数十メートル東にあった(現在の梅若公園)。
1945年(昭和二十年)4月13日、米軍機の空襲を受けて寺の本堂は焼失。しかし周囲が焼け野原になる中、奇跡的に梅若堂だけが、爆弾の断片によって損傷を受けながらも立ち残っていたという。
1976年(昭和五十一年)に白鬚防災団地が作られる際に、防災拠点内の木造建築物は許可されず、現在地へ覆堂を作って移転した。
旧境内地にあった梅若堂のたたずまい(昭和四十年代)
[写真集 墨田区の昭和史(墨田区の昭和史編纂委員会)]
移築するために移動作業中の梅若塚祠(昭和五十一年<1976>)
[写真集 墨田区の昭和史(墨田区の昭和史編纂委員会)]
ガラス越しではあるが、梅若堂の木の壁を見ると、空襲時の損傷跡がいくつも確認できる。
梅若堂(梅若塚拝殿)
この仏堂は、明治の廃仏で1時梅若神社とされた梅若塚が再び仏式に復帰した年、すなわち明治廿二年の建立になります。
当時一帯が全焼した昭和廿年四月の戦災にも焼失を免れた唯一の仏堂ですが、その後の空襲で受けた爆弾々片による痕跡(○印)が所々に見られます。(後略)
誰が描いたものか分からないが、焼け野の中に梅若堂だけが立っている様子の絵が飾られている。