東京初空襲

May 12th, 2008

最初の東京空襲は、1942年(昭和17年)4月18日。太平洋戦争開戦からわずか半年後のことであった。

真珠湾攻撃によって大きな打撃を受けたアメリカ軍は、その報復として、帝都東京への空襲を計画した。日本本土に爆撃機を到達させるために、航続距離の長い陸軍中型爆撃機を、東京まで1200kmの日本の哨戒艇配備線ぎりぎりまで近づけた空母から発艦させるというアイデアを採用した。空母の短い飛行甲板から離陸するために、ノースアメリカンB25爆撃機を軽量化し、飛行士は何度も離陸訓練を行った。

ジェームス H・ドゥリトル中佐率いるB25爆撃機16機を搭載した空母ホーネットは、巡洋艦や駆逐艦などの護衛のもと、1942年4月2日にサンフランシスコを出港し、日本へ向かった。そして4月17日、発艦予定海域の手前で日本軍特設監視艇に発見されたため、予定より若干早く爆撃隊はホーネットを発艦した。


空母ホーネットに搭載されたB25[Wikimedia Commons

空母ホーネットは、16機の発艦を終えると、日本軍からの攻撃を避けるためにすぐに引き返した。ドゥリトル隊は、空母に戻るのではなく、東京など日本の主要都市を爆撃した後、日本列島を横断して、中国東部の基地に着陸する計画だった。

B25が大海原を飛び越えて日本本土に到着したのは4月18日の正午。東京では皮肉にも折からの防空訓練の最中だった。12時15分にドゥリトル中佐の一番機が東京上空で最初の爆弾を投下した時、多くの人はその機影を訓練のための模擬敵機だと勘違いしたという。空襲警報のサイレンが鳴り響いたのは、その14分も後だった。アメリカ軍の爆撃機が本土上空に現れることなどまだ誰も予想していなかったため、人々は、精神的にも物理的にも無防備だった。ドゥリトル隊の奇襲攻撃は、計画どおり成功したのである。

警視庁の発表によれば、東京を空爆したB25は6機(他は川崎、横須賀、横浜、名古屋、大阪、神戸などへ向かった)で、600m内外の低空で一機ずつばらばらに攻撃を行い、投下弾は爆弾250キロ級6発、焼夷弾は小型エレクトロン452発で、焼失した地域は主として荒川区尾久町、王子区(現在の北区)稲付町、小石川区(現在の文京区)関口水道町、牛込区(現在の新宿区)早稲田鶴巻町、馬場下町など。焼失家屋61棟1227世帯。東京都内での死者は39人、重傷者73人、軽傷者234人。最も犠牲の多かったのは荒川区で、旭電化工場を中心とする尾久町の人口密集地帯が爆撃され、死者10人、重軽傷者48人を出した。

葛飾区の水元国民学校高等科一年生になったばかりの石出巳之助君(当時14歳)は、12時半すぎ、土曜の午前の農業実習を終えて、帰宅しようとしていた。校門を出たところで空襲警報のサイレンを聞いた。北の森の方から、真っ黒い飛行機が現れ、機関車のようなうなりを上げて低空でこちらへ向かってきた。とっさに学校内へ引き返そうとした巳之助君に向かって、B25は機銃掃射してきた。なんとか校舎に飛び込んだが、窓ガラスを貫通した掃射弾が彼の脇腹を直撃した。少年は廊下に倒れ、鮮血に染まった。近くにいた教師らが病院に運んだが、巳之助君は間もなく死亡した。[東京が燃えた日 - 戦争と中学生 - (早乙女 勝元)]

早稲田中学校でも、生徒のひとりが、校庭で焼夷弾の直撃を受けて即死した。東京空襲の犠牲者第一号は、これらなんの罪もない少年たちだったのである。

日本全国数十カ所を奇襲攻撃したドゥリトル隊の16機は、日本本土を離れた後、一機は燃料系統の不具合で最短距離のソ連のウラジオストックに不時着、他の15機は予定どおり麗水に向かうも、中国側との連携不備により飛行場の受け入れ態勢が整わないまま燃料切れとなって、4機は着陸失敗で大破、11機は落下傘での脱出降下(5名死亡)を行った。日本軍の占領区域に降りた8名は日本軍の捕虜となった。そして軍法会議の結果、3名が死刑になった。

この東京初空襲は日米両者にとって大きな意味をもった。真珠湾以降、敗退を続けていたアメリカの国民は、この東京空爆成功のニュースによって大きく戦意を高揚させた。逆に日本の軍部は、神聖な帝都上空を侵されたことで面目を失い、日常の防空防火訓練の強化や、本土防空哨戒線の拡張を目指したミッドウェー島攻略作戦に乗り出すことになる。結果的に、日米の攻守逆転のきっかけとなる出来事だったと言える。

  1. 戸蒔健夫

     東京府立第21中学校(後の都立武蔵中)の2年生になったばかりの土曜日に昼過ぎだった。友達数人と鷺宮駅に向けて麦畑の道を歩いている時だった。駅の方向から突如、色も形も見慣れぬ双発の飛行機が現れた。たちまち我々の左側の麦畑の上を超低空で、慌てふためくように機体を上下させながら北方に飛び去った。かなりな低空で、胴体のアメリカのマークや乗員もはっきりと見えた。私たちは訳の判らぬまま夢中で鷺宮駅まで走った。駅前でざわめく人々の話で、それが初の本土空襲であることを知った。翌々日の月曜日、いつも通りの校庭での全校朝礼で手塚昇校長が、空母ホーネットから飛び立ったノースアメリカンB25であること。連戦連敗に一矢を報いてアメリカ国民を鼓舞する趣旨の一過性の空襲とは思うが、もしもこれからこのような事態にあったならば、ためらわず麦畑に身を伏せなさい。日頃麦を痛めてはならぬときつく言ってきたのは、それは麦を作るお百姓が大事だからだ。「麦の弁償は学校がする。安心しての直ちに麦畑に身を伏せなさい。」と優しく力強く話されたのを、84歳になる今でもはっきりと覚えている。

  2. 小川

    私は当時新宿区立戸塚第一小学校の4年でした。空襲警報だったか高射砲の音だったかがして、皆で窓際に駆けつけました、
    そこで見えたのは飛んでいる垂直尾翼が2枚ある見たことのない形の大型機の後ろ姿でした。
    後で分かったことですが、それが馬場下の早稲田中学や鶴巻町の岡崎病院に焼夷弾を落とした飛行機だったと思います。

    今年の7月に偶々カナダのトロントに滞在していました、(長女がカナダ人と結婚していてその家に滞在)婿がハミルトンに戦争に使った飛行機の展示場があり今日までB17の展示があるから見に行こうというので見に行きました。
    展示場には大きな爆撃機が置いてあり、行列して内部を見ることができました、大きな機関銃(機関砲)2連装の砲座が前後左右に上下とほとんど死角なく配置され機中での移動も大変な狭さでした。
    当時は東京初空襲の爆撃機がB17か、B25か知りませんでしたが、2枚尾翼の爆撃機と言うことは焼き付いていました。
    帰国してから落ち着いて現地でもらったパンフレットを眺めていたら自分が乗ったのはB25で東京初空襲としてインターネットで調べたら、同じ機種だとわかりました。

  3. 戸蒔健夫

     小川さん、はじめまして! 同じ飛行機ですね。垂直尾翼が2枚で、私たちも瞬間的におかしいと思ったのですから。私は戸塚第2小学校卒業でした。戸塚第一小が高田馬場駅の東側(早稲田に行く方)だったんでしたか忘れてしまいましたが、多分そうですね。鷺宮に来た時には既に爆弾は落としてしまっていたんですね。それであんな逃げるのだけに夢中のように飛び去ったのだと合点が行きます。その後群馬または長野県の山間を無我夢中で飛びぬけて日本海に出て、予定の中国に逃げ込んだのでしょうが、米国軍と中国軍との連絡が悪かったようで、逃げて来たB25を助けるはずだったのに、敵機と間違えられて、ほとんど打ち落とされたとのこと。気の毒の限りです。残り少ないB25を見れたんですね。グーグルをつけたあの若者は助かった方に入ってくれたらいいなと思います。目が合うような近さで飛んでいったのですから・・。
    わが家は戸塚二丁目で「戸塚産院」をやっていました。残念ながら4月十日の空襲で焼け出されました。戦後、兄と姉は東京に戻りましたが、私は岩手に残って教員になりました。
     いろいろ思い出します。明治通りと交差点のロータリー(今はないようですね)。前線座または全線座という映画館。早稲田大学・大隈講堂。ずっと戻って戸山ヶ原。

  4. 神達

    私の地元、荒川区では2009年より毎年4月中旬に「尾久初空襲を忘れないコンサート」を開催しております。空襲の生き証人でもある田村正彦氏(現尾久橋町会会長)が語り部となって当時の悲惨さを伝えています。私の母校早稲田中学の中庭にも慰霊碑が建立されています。

  5. 金髙 久由

    私は現在 埼玉県川口市に在住の81歳になる当時の尾久初空襲の体験者です。この様な会が有ることを娘から聞かされるまで何も知りませんでした。インターネットも出来ませんので、妻に投稿してもらう次第です。

    当時 私は東京市尾久西国民学校1年生でした。お昼頃、家(米穀商)の隣の空き地で遊んでおりました時、凄い爆音が聞こえると同時に店のガラス戸が、今迄聞いた事の無いバリバリ~と云う物凄い音が響き渡り、上空を見上げるとアメリカの
    飛行機が旭電化方向より、飛んで行きました。あまりにも低空飛行なものでしたので、飛行帽を被ったパイロットの顔まで
    ハッキリ見えました。少し経って日本の飛行機1機が後を追う様に飛んで行きました。その時は周囲の人達も何が起きたのかも解からずにおりましたが、後で爆撃に遭った方の訃報を知りました。 81歳まで生きてきてその時の様子は今でも、ハッキリと覚えております。娘に話ました処、投稿を勧められ思い出すがままに書き綴った次第です。

  6. 島田 浩

     帝都初空襲が昭和17年4月18日、その遠因が真珠湾攻撃で取り逃がした米空母にあったことに深く責任を感じていた長官は、ミッドウエー作戦を企図したが運命の5分間で、わが機動部隊は惨敗、太平洋戦争の潮目はかわった。そしてその翌年、昭和18年4月18日、前線将兵の督励のため基地ラバウルを飛び立った長官機は、ブーゲンビル島上空で待ち伏せしていた米機によって撃墜された。自分は当時小学校6年であったが、因縁の4月18日は忘れない。
    以 上

  7. 佐光

    母が市川の真間でやはり飛行機を見たといっていました。
    土曜日に半日で学校の帰りだったそうでした。
    急降下する音に上をみたら、見慣れる飛行機が目の前にいて驚いたとのことでした。
    グレーの飛行機で、星のマークのついた見たこともない飛行機だったそうです。
    パイロットが見えた記憶があると言っています。
    空襲警報は、市川あたりではならなかったそうです。けが人などもなかったようだったとのことでした。

    驚いて帰宅後家族に話したものの、大人たちは戦勝ムード一色で
    適機が来たと子どもが言っても、まともにとりあわってもらえなかったような気がするとのこと。
    また、母の記憶では、当時、この空襲は報道もされていなかったのではないかとのことです。
    6年生だったけれど、ラジオで報道されていた記憶も、新聞で記事をみた記憶もなく、
    大人達がそういう話をしていたようすもなかったというとでした。

    母の中では、長らく半信半疑の夢のように記憶の中に残っていたようですが、
    70年代にNHKで取り上げられた番組を見てやっぱりあの時みたのは
    米軍機だったのだと思ったと言っています。

コメントを書く