花火

July 30th, 2005

今夜は、下町の夏の風物詩、隅田川花火大会が行われ、大勢の人々が向島、両国、浅草、浅草橋などで約2万発の花火を観覧したことと思う。私は向島の道端で見ていた。

隅田川花火大会は、もともと両国花火として江戸時代から下町庶民に親しまれてきた行事だ。1733年(享保18年)に行われた両国の川開き(納涼期間の最初の日)の余興として花火を見せたのがはじまりだと言われている。[両国の花火250周年記念誌 花火/下町/隅田川(隅田川花火大会実行委員会)]

この恒例の行事も、戦時色の強まっていた1937年(昭和12年)の会を最後に、太平洋戦争中は中断されていた。

年表によると、「昭和十五年は五月頃、白衣の勇士招待だけの川開き大花火を計画し、各料亭の割当まで済ませ準備完了のところ独・ソ関係緊迫の理由で断念、以降昭和二十二年まで大花火なし」とある。当時は煙火業界では、若い男子はほとんど自家工場で働いている者はいないほど、召集、動員(信号弾などの火薬兵器の製造)されてしまった。[両国の花火250周年記念誌 花火/下町/隅田川(隅田川花火大会実行委員会)]

戦後になって再び開催されるようになり、全国花火コンクールという位置づけも合わさって年々人気を高めたが、1961年(昭和36年)、隅田川の極度の水質悪化や交通状態の悪化を理由に、両国花火はまた中断されることになる。

その後、隅田川の水質改善や会場の整備などによって1978年(昭和53年)に「隅田川花火大会」と名を変えて再度復活を果たし、現在まで続いている。

東京大空襲では、隅田川に面した浅草区、本所区、深川区の三区が最も大きな被害を被った。平和の象徴とも言える花火だが、生き残った被災者の中には、この風物を簡単には受け入れられない人もいる。

苦しかった時代は過ぎ、いま私はこうしてゆったりと東京に住み、お金も貯め、たくさんの孫をもち、豊かに幸せに暮らしている。しかし今でも私は、花火の「ドン」という音は爆音に聞こえ、夜空にパッと散るその様子は「爆弾」に見える。今でも松の木のこぶを見ると、あのときの黒こげの死人の顔を思い出す。[15歳が聞いた東京大空襲 女子学院中学生が受け継ぐ戦争体験(早乙女勝元 編著)- 中込百合子さんの祖母の体験談]

  1. 空襲日記 | 閃光花火

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