イカダの上にうつぶせにしがみついてました
March 28th, 2008深川区扇橋に住んでいた斎藤うた子さん(当時23歳)は、3月9日の夜、ささいなことで母親と大ゲンカになり、二階にかけ上がってふて寝してしまった。
気がつくと外が騒がしく、B29の大群が夜空をおおい、あちこちで火の手があがっていた。あわてて飛び起き、両親を含めた一家七人で、家の防空壕に避難した。しばらく防空壕にいたが、やがて白河町方面から群衆がなだれのように押し寄せてきた。人々は口々に「逃げないと死ぬぞ」と叫んでいた。
父親が、母親と妹のふたりに、「先に葛西橋へ逃げろ」言ったので、ふたりは防空壕を後にした。
少ししてから、うた子さんと17歳の弟のふたりも、布団を頭からひっかぶって母親と妹の後を追い外に出た。父親ともうひとりの弟は、「おれたち、最後まで家を守るからな」といって、家に留まることになった。
3月10日の体験談の多くで、このように、家族の面々が意図的に別々な行動をとった様子が伝えられている。うた子さんの話はその典型で、まず老人などの弱い者が先に避難を開始し、次に若者が自由意志で避難行動をとり、父親が家を守るべく留まるというものだ。
当時の防空法でも、空襲の際に住民は消火活動を義務づけられていたので、「とても消せるような火ではない」ということに気づくまで多くの人が避難せずにいた。これが犠牲者を増やす要因になったと言われるが、そうでなくても、例えば先に避難した人であっても、必ずしも助かる確率が高いわけではなかったようだ。
うた子さんと弟は、3キロほど離れた葛西橋を目指したが、大勢の避難民が通りを埋め尽くす中、到底たどり着けそうもなかった。そうしているうちに頭上から焼夷弾が降り注ぎ、火が人波の中に渦巻いて、折からの強風の中、あっという間に人々が火だるまになっていった。
ふたりはなんとか路地を抜けて、横十間川に突き当たった。橋を渡ろうとしたが、橋の上は人がいっぱいで渡れない。大量の火の粉が舞う中を、しかたなく川に飛び込んだ。そして川に浮いたイカダに上った。イカダの上は火と水から逃れようとする人でいっぱいになった。しかしイカダの上も決して安全な場所ではなかった。
川の中は荷物と人間の手ばかりが、吹きつける熱風とともに、にょきにょきとゆれて流れていました。(中略)ごーっと、またひとしきり突風がきて、真赤な炎が水面を走ってきて、そのたびごとに、イカダの上の人は、めっきりとへっていく。むこう岸の家々は、いまをさかりと、ボンボン燃えているのね。吹き付ける熱風は、どうしようもないほどで、ほおのあたりをよぎっていくときなんか、かあっと、耳の奥まで熱くなる。熱いのと、息がつまりそうなのと、吹き飛ばされそうなのとで、あたしは弟と二人、イカダの上にうつぶせにしがみついてました。[東京大空襲 昭和20年3月10日の記録(早乙女 勝元)]
そうするうちにイカダにも火がつきはじめたので、ふたりはイカダからイカダへ飛び移りながら、なんとか火焔を逃れていった。
その時、一機のB29が地上すれすれの超低空で接近し、機銃掃射を行っていったという。うた子さんは、爆撃手の顔が見えたという。
命からがら川を渡って岸に上り、なんとか炎から逃れることができたうた子さんだったが、大ゲンカをしたままの母親とは、二度と話すことはできなかった。後になって、母親と妹が小名木川で亡くなったことを知った。